KARATE兄弟 安里亀栄・亀永の生き様を世界に届けたい|Report
アルゼンチンに移民した沖縄県人の安里亀栄・亀永兄弟ですが、空手家としての足跡は空手界ではまったく知られていません。彼らが第二次世界大戦前に、沖縄空手を海外に紹介した、そして普及もしていた事実は、空手史の面からもっと注目されるべきだと思います。そこで、過去記事の再録や修正も含め、兄弟について調査した内容を以下にまとめてみます。
文献にみる「安里亀栄」
『日本移民発祥の地コルドバ―アルゼンチン、コルドバ州日本人百十年史』(1998年)から、安里亀栄に関する記述を抜き出します。
安里武士と言えば、コルドバ先住者達から種々エピソードが伝わっている。その特技の一つに安里武士がセルベーサ(ビール)やビーノ(ワイン)の入っているボテジャ(瓶)を握り指先でサッと圧力を入れると、その栓がスポッと抜け出る程のすごい握力があったと語り継がれている。
その安里亀栄武士は沖縄が世界に誇る三味線と空手の伝統や文化を兼備した、即ち「楽人武人」と世にも稀な存在で当時、サンタフェで働いていた。コルドバには弟の亀永が働いていたので彼の名はコルドバ迄あまねく知れわたっていた。
一九三五年そうした噂を聞いたが、ドクトル・ノーレス(イネスの夫)が是非コルドバで空手を演武公開して欲しいと安里武士に申し込んだところ、心よく承諾して、兄弟二人でデモンストラションを行う事に決まり、演武場はヌエベ・デ・フーリオ街四百番にあるヒムナシア・エスグリマのサロンと決まった。アルゼンチンでの初めての空手の実演とあってサロンは観客で一杯になったところ、コルドバ日会の元幹部の星吉平の司会と通訳で空手の解説と奥義を説明しつつ進められ、そのうちに分厚い板割りの早技や、迫力に満ちた空手の形、組手等の披露など東洋武術に初めて接した。観衆に大きな感銘を与え大好評であったといわれている。これがアルゼンチンの空手演武公開の嚆矢である。その公演で棒術とサイ術が披露されたのは記録にないが多分実演したであろう。以下(安里亀森氏資料提供)安里亀栄氏は琉球古典音楽野村流の大家でもあり、真栄城光安先生に師事、亜国の斯道の元祖であった。又空手は名護の屋部憲通軍曹直々の指導を受け継いだ空手家でこれ又亜国での始祖である。
亀栄・亀永兄弟の移住経緯
兄・亀栄は1896年生まれで、1949年、53歳で逝去しました。移住したのは1930年で(29年とも?)、33歳のときでした。先に移住した弟の妻・ヨシを伴って移住しました。弟・亀永は1902年生まれで、1963年、61歳で逝去しました。移住したのは1927年で、25歳のときでした。当初はブラジルに移住する考えだったそうです。
両名とも進取の気質に富む人物で、外国への好奇心がありました。日本が戦局を迎えつつある中で危機感を抱いており、外国に投資の可能性を感じていたからではないかと推測する方がいらっしゃいました。
亀栄・亀永兄弟の家族構成
以前、中城村奥間での聞き取りから、亀栄は結婚して1男1女を授かったと書きましたが、正しい家族構成は、妻、長女、次女・モモコ、長男・昌助、次男・亀吉、三男・亀森、四男・栄太郎(母が別)でした。このうち妻と長女は沖縄に残り、次女と次男が先に呼び寄せで移民し、次いで亀森と栄太郎が呼び寄せられたとのことです。長男は不明で、早逝した可能性もあります。
亀永の家族構成は、妻・ヨシ、長女・スミ子、長男・エンリケ、次女・エレナ、次男・エミリオ、三女・エルサ、四女・エルビーダ、三男・エデルミード、五女・エバ、四男・エドゥワルドです。すべて頭文字は「永」をもじって「E」から始まります。名乗り頭の伝統を受け継いでいるのですね。
ブエノスアイレスの亀栄家の位牌によると、亀栄・亀永以前の系譜は「和仁屋親雲上→八代善昌(津堅親方)→安里筑登之→安里親雲上夫妻→一一代(氏名漏れ)→安里亀盛→亀助(以下略)」となっていました。亀森が1974年に中城村の生家に帰省したときに位牌を相続し、持ち帰ったということでした。
亀栄・亀永兄弟のワークライフ
兄・亀栄の移住当初の住所はサンタフェが有力ですが(詳しくは不明とのこと)、1938年にはブエノスアイレスに住んでいたようです(『在亜日本人会年鑑』に記録あり)。弟・亀永はブエノスアイレス→バイア・ブランカ→コルドバ→サンタフェ→ブエノスアイレス→ロサリオと転居を繰り返していました。亀栄は息子(亀吉か?)の病気療養でコルドバのコルキンに滞在していたときがあり、亀永の居住期間とかぶっています。また、サンタフェでも兄弟は同時期に住んでいました。
亀栄は事業には成功していたようです。洗濯店の頃は最大7名の従業員がいたらしく、当時から経営者として現場で働くことはなかったそうです。亀永の職歴は、当初バルで調理人として働いていたようですが、ロサリオ時代には洗濯店を営んでいました。亀永はコルドバとサンタフェ時代に空手と柔道を教えていたそうです。ロサリオ市の警察においても、ボランティアで空手(主に防御法)指導をしていました。また、スポーツクラブでも同様に教えていたと聞きました。
両名とも三線の名人でした。兄・亀栄は1938年にはブエノスアイレスで三線教室を開いていました。1938年と刻印された三線のツメもみつかりました。弟・亀永は芝居や舞踊に優れ、写真が残されています。太鼓や三線を教えたり、衣装や花笠、三板等を製作したりなど多方面で活躍しました。
亀栄・亀永兄弟の空手バカ一代
沖縄県人の間では兄弟が空手の達人であることは知られていました。1936年の県人会ピクニックの余興で空手を演武したときの写真3枚があります。ひとつは兄弟で演武しているもの、ひとつは亀栄が知念善一と組手をしているもの、ひとつは亀栄が単独で棒の演武をしているものです。撮影者は寺川写真館で、日系人御用達の写真家でした。
亀栄については別途、棒の型を決めている写真、板割の肖像画写真等もあります。また、亀栄が空手を指導している写真があります。旭日旗が写っていることから、1930年代の日中戦争当時か太平洋戦争突入間近な頃ではないかと思われます。写真には知念善一も写っています。
亀栄息子の亀森家族(妻・秀子、息子・ファンカルロス)が、武具として棒3本、サイ1対を所有していました。いずれも亀栄本人が沖縄から持ち込んだもので(ただし、メンテナンスとしての塗装上塗りは亀森が行った)、棒のうちひとつは先端が刃物の形に造形された槍状です。家紋が入った箱もありました。現在は沖縄空手会館に収蔵・展示されていると思います。みなさんぜひお越しください。
以上、敬称略
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