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象設計集団の今帰仁村中央公民館|Report

象とは誰か

2023年2月18日、今帰仁村コミュニティセンターで行われたシンポジウムの正式なタイトルは「今帰仁の未来を考えてみよう!シンポジウム 中央公民館エリアを活用した村おこしを考える」と題されていた。だが主題は、象設計集団が設計した今帰仁村中央公民館はいかなる関心から生み出され、私たちはそれをどう保存・活用していくべきかに置かれていたと思う。

象設計集団(AtelierZo)とは1971年発足の建築家グループで、七つの原則を掲げ、徹底したフィールドワークにもとづき場所や地域の固有性をデザインする。その作品には今も昔も根強いファンがいる。彼・彼女らの初期の活動の舞台が沖縄であり、代表作には日本建築学会賞を受賞した名護市庁舎(1981年)がある。今帰仁村中央公民館はそれに先立つ1975年完成の、象が最初に手がけた建築物だ。築年数を重ねてずいぶん前から利用できなくなり、現在は立ち入りも制限されている。

パネリスト一人目の山名義之さん(東京理科大学教授)の関心は、象のメンバーの建築思想の系譜にあった。大竹康市、樋口裕康、富田玲子、重村力、有村桂子の創設者たちが、師である吉阪隆正の批判的精神を受け継いでいることを示唆した。その動かぬ証拠が中央公民館の柱の基部に飾られた貝殻にある。吉阪は早稲田大学を休職し、1950年から1952年までル・コルビュジエのアトリエに勤務した。しかし、モダニズム建築が世界中を画一化することを憂い、批判的地域主義にシンパシーを感じていた。だからコルビュジエのマルセイユのユニテ・ダビタシオンの設計のときに、吉阪はこっそりと風土性=貝殻を潜り込ませたのだと。中央公民館はその批判的精神のオマージュだったと受け止められる。

吉阪のクリティカルな姿勢を継承した象の面々は、今帰仁村の各字をくまなく歩きまわり、集落の空間構造がムラヤーという自治公民館を中心に構成されていると看破した。パネリスト二人目の服部敦さん(中部大学教授)はその論旨を引き継ぎ、象が今帰仁村中央公民館の設計と並行して、村の総合計画とそれを具体論に落とし込んだ各論計画に取り組んでいたと報告した。それも足掛け4年をかけてであり、各字の生活空間をじっくりと観察し詳細にスケッチすることから、「山原型土地利用」や「自力建設」というキーワードが生み出された。そして、字における自治公民館の役割を村における中央公民館の役割へと読み替え、そこを中心として「環境構造線」という象の建築空間認識の秩序となる軸線を引いたのだと立論した。

若き成熟

今帰仁での経験は、地域計画としても建築設計としてもその後の象設計集団を方向づけるプロトタイプとなった。私の疑問は、なぜこの人たちは弱冠20代から30代の若手時代に、こうした質の高い濃密な仕事ができたのかという点だった。ほとんど参与観察といってよい地域との関わり方を志向させたのは何だったのだろうか。

吉阪の血脈からの批判的地域主義、すなわち地域に密着したバナキュラー建築とモダンな近代建築を節合しようとする思想があったからーー地域固有の空間構成や生活価値の本質を見定めるために、時間をかけクリティカルな態度で対象と向き合った。そのため、服部さんの言葉では「SDGsを先取りしたかのような」設計やまちづくりの思想にたどりついた。

でも、それだけではないと思う。若い情熱、渡航の大変さ(当時はパスポートが必要だった)、異文化に接する高揚感、受け入れられたときの安堵の気持ち、村職員との協働場面での緊張と緩和、そのすべてが純粋にこの地域に役立ちたいという使命感へと結実したはずだ。

時代の空気というのもあっただろう。琉球政府から沖縄県へと変わろうとする頃、市町村にはまだ公共公益施設は少なく、総合計画など行政計画もこれからという時期だった。自分たちがブルーオーシャンへ漕ぎ出すことに胸が高鳴っただろうと想像する。沖縄でのインテンシブな村落調査は東京都立大学社会人類学研究室などの先例があり、刺激を受けたこともあったかもしれない。

そのへんの空気感を、象と一緒に計画づくりに勤しんだコメンテーターの若井康彦さん(千葉県地方自治研究センター理事長)に聞いてみた。明言は得られなかったが、若井さんの存在そのものが答えだった。なぜならば、当時の役場職員が大勢駆けつけ、終了後も彼の周りからはしばらくは人だかりが途切れなかったからだ。

住民参加による持続的な建築

シンポジウムではもう一人、埼玉県宮代町のコミュニティセンター進修館から渡邊朋子さん(指定管理団体代表)が参加していた。進修館は「世界のどこにもない空間を」という町長のリクエストに、象のメンバーが「世界の中心のひとつ」と応え、富士山と筑波山を結ぶ軸と南北の軸が交わる点を広場の中心にして空間を構成した。レトロモダンな雰囲気で、ジブリ映画に出てきそうな建物とコメントされることもあるらしい。1980年に供用され、市民活動の場として長く親しまれている。

渡邊さん報告へのコメントの中で、服部さんはインタビューした象の重村力さんの言葉を紹介した。中央公民館設計の頃は「自力建設」と表現したが、彼・彼女らが意図したのは今でいう「市民協働」のことだった。だが今帰仁では、十分な住民参加とはならなかったことが心残りだと漏らしたそうだ。確かに、中央公民館が今帰仁に住む人に積極的に利用され、村民文化を育んだという話はあまり聞かない。それは都市化の波で新市民が急増していた宮代町との地の利の違いであったのかもしれない。

しかし、私は思う。自治公民館を中央公民館に置換したことがミスリードだったのではないかと。沖縄北部の各集落は村落共同体としての自律性が高く、ムラヤー(自治公民館)周辺が集落の中心だったことは間違いないだろう。だが、ミクロコスモスで収束しているがゆえに、その上位互換の機能は必要なかった。別の言葉でいえば、昭和の半分以上が過ぎていても、市町村制は今帰仁の人々の生活感覚にまだフィットしていなかった。

渡邊さんの報告によると、新修館もまた一日にして成らずで、町から指定管理者に運営が移ってからも、進修館だより、進修館百貨店、公募型共催事業、交流マップ、進修館ファンクラブなど様々な仕掛けや企画をくりだして、市民活動や住民参加をうながしている。やはり人に使ってもらえる公共施設になるには、住民のニーズにあった活動を差配するコーディネート機能が重要である。

中央公民館でも、屋根を緑化していたパーゴラを復活させるワークショップが過去に行われており、これには象の仲間の丸山欣也さん(アトリエモビル主宰)が協力した。また、沖縄県建築士会の有志がコンクリート補修対策技術のためのモニタリングを続けているそうだ。これら建築物としての中央公民館の再生とは別立てで、施設マネジメントの再生(周辺含めたエリアの再生が計画されようとしている)にも取り組まなくてはならない。

若井さんのコメントにもあったように、村人口1万人は顔が見える大集落だと見立てて、上位互換ではなく自治公民館=中央公民館として、村民との関わり方をリノベし、本物のリビング・ヘリテージとして深く付き合いなおそうではないか。そのときこそ、今帰仁村のなかから中央公民館を「庭であり、居間であり、勉強部屋」のように使いこなす住民が現れ、人と人をつなげるコミュニティデザイナーが輩出されるはずである。

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