スピリチュアリティの暗い側面:霊的エゴ
もしあなたが「覚醒」によって人々からさらに遠ざけられ自分がより孤立する気持ちに苛まれるなら、それはあなたの「霊的」エゴだけが覚醒したことを意味する。
ある人は、覚醒を経験するということは皆が酔っているバーで自分だけが素面の人間でいるかのようだ、と言った。あなたはその場から逃げ出したいという衝動に駆られるだろう。酔っぱらった群衆との間に深い隔たりを感じるのだ。それが、いわゆる「霊的」エゴを覚醒させた人々の現実である。
本質的に、「霊的エゴ」という言葉は自己の霊的な信念や実践に基づく自己のアイデンティティと誇りを指す。
この現象は、個人が自分自身を他者よりも霊的に優れていると認識し始めると起こる現象である。皮肉なことに、古いアイデンティティを捨てようとする試みの中で、彼らは新しいアイデンティティを構築しそしてそれに執着することに終わってしまうのだ。
これは、謙遜と無私の原則に基づく霊性の追究が、霊的な達成感や差別感を通じて逆にエゴを強化するという逆説につながる可能性がある。したがって霊的エゴは、私たちのアイデンティティのいかなる次元と同様に、しばしば似た信念を持つ人々に引き寄せられる。そして時には信念を持たない「彼ら」を毒とラベル付けして人々を見下し、「彼ら」が我々の崇高な活動に参加しないことを非難してしまう可能性を孕む。このプロセスは、宗教人であろうとなかろうと、知識人であろうと、平和主義者であろうと関係ない。「私たち」が誇りや帰属感を得るために打ち込む霊的覚醒のプロセスにも、等しく共通する。
この場合の「私たち」は、「彼ら」やそれに付随する事象と区別された個別の存在としての自己の認識ができている状態である。そのため、同じ信念を共有する我々のコミュニティにおいては、矜持と安心が得られるが、同時にそのグループの外にいる人々(=彼ら)とは距離を感じ、彼らと分離させられた存在と自己を認識してしまう。
しかしすべてのアイデンティティは、大小の差はあれど例外なく自己と他人とを分断・分離を内包するため、どれほど私達が高潔であり霊的であると自己認識していても、私達が真の覚醒に至っていないのであれば、「彼ら」と「私たち」が抱えるそれぞれの問題は本質的に変わらないのである。
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