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レモンティー
学生時代は何度か入院していて、そのひとつは交通事故によるものだった。
レントゲンを前にした医師が「折れてますね」と言う。
知っているよと思うほど痛かったから、何だったらこちらから「折れてますよ」と申告したってよかった。
私の右足は丸太のように腫れていて、色も薄紫とグレーを足したような色をしていた。自分の右足の膝から下が象の足ような状態になっていることは、どんなに痛みを伴ってもハロウィンに被るラバーマスクを足に履いているように現実味がなかった。
意外に冷静でいられたのは、その足の状態を自分で目にしていたからだけど、次の瞬間の医師の言葉にはさすがに驚いた。
「これ砕けているから、このまま入院して手術になります」
えっ、骨って砕けんの?
骨は折れる以外に砕けることもあって、私はこのまま入院して手術するんだ?と混乱している間も、医師は淡々と今の状態と手術方法を説明していた。
理解が追い付かないまま車椅子で4人部屋へと運ばれ、そこに遅れて母親が駆け付けた。
母は「まったくもう」と小言を言ったか「手術、やるしかないねぇ」と励ましの言葉をかけたか思い出せないのだけど、ベットサイドの小さな冷蔵庫を食べ物と飲み物でパンパンにして、しばらく困らない程度のテレビカードとお金、衣類を置いて仕事に戻っていったことはよく覚えている。
そこからは手術に向けての検査が続き、あれよあれよという間に私の足にはボルトが埋め込まれた。
手術の後、2、3日は痛みに耐えていた気がするが、それが過ぎてしまえば退院までのひと月は暇な毎日である。
足以外は元気な若者である私は松葉杖をすぐに使いこなし、普通に歩くよりもずっと速く歩き回れるようになった。水を得た魚。私は水槽を泳ぐグッピーのように華麗に病院中を飛び回っていた。
しかし死ぬほど憂鬱な時間があった。
それは消毒の時間。
骨が砕けた以上に最悪という感情が今でも残っている。
私の右足は骨折以外にふくらはぎの皮が一枚ベロンと剥けていたのだ。
手術の後、がっちり固定されたギプスにこれでは傷の消毒が出来ないと看護師さんが気が付いて、私のギプスは縦真っ二つに割られた。
毎日、午後の回診の時間にガーゼを剥がしてまた消毒し、新しいガーゼを貼る、そしてギプスをはめて包帯で固定するようだった。
ガーゼを剥がす時、再生された皮膚も一緒に捲れて血が噴き出した。あまりの痛さに枕を噛んで泣き叫ぶ私に、看護師さんたちも終始しかめっ面で「ごめんね、ごめんね」と繰り返していた。拷問タイムである。
これには私が詐欺集団であれば簡単に仲間を売っただろうし、テロリストであれば指導者をも売っただろう。
せっかく再生されている皮膚を消毒といって剥がす行為がそもそもわからなかった。それなのに毎日繰り返される拷問に「上からマキロン吹きかける程度でなんとかなりませんかね」とナースセンターに相談しに行くほど、心はナーバスになっていた。
とにかく最悪な時間だったのである。
ある日、売店にお菓子を買いに行き、エントランスを出たところで久しぶりに携帯の電源を入れて友人に電話をかけた。
少し話し込んでしまって病室に戻ると、午後の回診はとうに済んで皆思い思いの時間を過ごしていた。閉じられたカーテンの向こうでそれぞれのテレビが点いている。
私も横になって何となくテレビを点ける。後で回ってくるのかなと思っていた回診はやって来ず、図らずもその日は拷問を免れたのである。
思えばこれが私の逃亡の始まりだった。
その頃になるとちらほら友人が見舞いに来るようになっていた。
面会時間は決められていたが、当時はそれほどうるさくもなく、思ってもみない時間に友人たちはひょっこり顔を出した。
中でもよく来ていたのはHで、決まってリプトンの紙パックのレモンティーをお土産に持ってやって来た。これは入院中に限ったことではなく、自宅にいる時もHは結構な頻度でリプトンのレモンティー片手に突然やって来るのである。
そんなHに一度だけ「突然来るのはやめて」と怒ったことがあった。
その日の私はすごく元気がなくて、突然現れたHにイラっとしてそんなことを言ってしまったのだ。Hはすごくしゅんとして、その顔を見てやってしまったとまずい気持ちになったのだけど、Hは次の日、弟を連れたこ焼きを持ってやって来たのである。勿論それも突然だった。
色んな感情があったけれど、玄関に立つHと弟を見たら何だかすごく可笑しくて笑えてきた。同時に諦めに似た気持ちも沸いたが、あれは今となってもすごく可愛い謝罪だったように思う。
さて、次の日こそ大人しく拷問に耐えたが、それが痛みと辛さの再確認となってしまい、あくる日の午後に私は姿を消した。
私の逃亡はいたってシンプルで、回診の時間に3階西側の病棟から姿を消し、2階東側のトイレの一番奥に隠れるというものだった。
何回か免れたあたりで同じ病室のおばちゃんに「看護婦さん探してたわよ」なんて嫌味を言われたが「そうだったんですね」と素知らぬフリを決めた。結局夜になって突然シャッとカーテンが開かれ、拷問タイムが行われる日もあったが、3回に1回は免れた為、私の逃亡癖は以前として直らなかった。
慣れてくるとトイレに漫画や本を持ち込み、1時間ほどじっくり読んだ。
2階東側のトイレの一番奥は既に私の個室という感覚が生まれていて、誰かが入っていると腹が立ったりもした。人の家に勝手に入るなんて!という気持ちになるのだ。自分で書いていて結構クズだなと思う。クズな上にものすごく小さい。限りなく透明に近いクズ。
しかしその逃亡も数日後、終わりを迎えることとなる。
その日もお昼ご飯を終え、配膳台に自分のトレーを戻したその足で2階東側のトイレへ向かった。肩から斜めに掛けたスポーツ店の袋に漫画を入れて、松葉杖でぴょーんぴょーんと飛ぶその姿はもはや立派な常習犯である。
個室の自室に入り、矢沢あいの漫画を開くと早速面白い。個室は集中力を高めるのか、いつも以上に本の世界に没頭できた。
2階東側のトイレは西側に比べて薄暗く、利用者も少なかった。だから選んだというのもあるのだけど、実際に隠れていて人が訪れることもあまり無かったのだ。
それなのにその日は人がやって来た。
トイレを利用したい人なら真っ先にトイレに向かうはずなのに、その足音は様子が違っていた。恐る恐る、ゆっくりと近づいて来るのである。ビニールのこすれるような音もする。私は看護師さんが探しに来たのかもしれない、もう終わりだ!という気持ちで硬直していた。
そして私の個室の前でその足音はピタリと止まった。
「ジェーン、、いるの?」
突然自分の名前を呼ばれぎょっとして、そぉっとドアを開ける。そこにはレモンティーをぶら下げたHが立っていた。
「うそ!何でいるの!?」爆笑する私につられてHも薄ら笑っている。
「だって病室行ったらいなかったし、2階のトイレに隠れてるって前に言ってたから」
「だからってトイレに尋ねて来ないでよ」
「最初、間違えて西側行っちゃったよ」
笑いすぎて二人とも泣いていたと思う。
そこに館内放送が流れた。
♩~整形外科病棟に入院中の田波さん、田波ジェーンさん、至急病室までお戻りください。
放送で呼びかけられるという事態も今の私たちには笑いの起爆剤となって、やめてよ、呼ばれちゃってるよとお腹を抱えて笑っていた。
てっきり怒られると思って病室に戻ると、検査の時間だということだった。
そういえば朝にそんなことを聞いた気がする。
Hにろくにバイバイもできないまま車椅子でレントゲン室に連れて行かれ、その後病室に戻るとベットの細長いテーブルにビニール袋に入ったままのレモンティーがぽつんと置いてあった。
担当医がやってきて「術後の骨の状態はとてもいいよ。だけど消毒はきちんとしないと、ばい菌が入ってしまったら入院がのびてしまうからね。頑張ろうね」と言った。小学生に言い聞かすように怒られた私はとてもとても小さくなって「はい」と言うのが精いっぱいだった。
こうして私の逃亡の日々は終わりを迎えた。その日から一度も2階東側のトイレには行かなかった。
退院の日、同室のおばちゃんに挨拶すると「一時は逃げ回ってどうなることかと思ったわ」と言われ、続け様に看護師さんにも先生にも同じことを言われた。私は「へへ、すんません」と頭を下げ、たった今そのことを知った母に呆れられ、病院を後にした。出所。シャバの太陽がきついぜ。
退院してから松葉杖が取れるまでは暫くかかったように思う。
それでも松葉杖で歩く速さを友人たちに見せつけて、褒められたり笑われたりして過ごした。
ギプスが外れてもすぐに歩くことは出来なかった。足を着いて歩くというシステムを私の身体はすっかり忘れていたのだ。
左足よりもずっと細くなった右足を恐る恐る地面に着いてついに何歩か歩けた時、横に居たHが「歩いた!歩いた!」と初めて歩いたわが子を目撃したように両手を上げて喜んでいた。
きっとそこにもレモンティーがあったのだと思う。