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#19 ーうつ病みのうつ闇ー 決着…許しと親の死に目 その3
多くの重病患者と接してきたシーゲル博士は、普通の医者が避ける、打つ手がなく救うことができない患者にも、最期(さいご)まで寄り添った。
そして、人はある程度、自分の死期をコントロールできる。という例をたくさん目の当たりにした。
彼によると病気や老衰(ろうすい)など、もう患者本人は死を受け入れていて、体も死期を迎えているのに、家族や医療者に遠慮して、死にゆくことを躊躇(ちゅうちょ)してしまうということがあるらしい。
夜の12時をまわった深夜から早朝に亡くなる人が多いのは、その時間帯なら周りに人がいないことが多く、一部の人にとっては、気兼(きが)ねなく旅立つことができるからだという。
遺される人のことを心配して、死ぬのを躊躇している人に、家族は「私たちは大丈夫だから、安心して旅立って良いんだよ」と言ってあげると、安心して旅立つことができるらしい。
これは、決して死を促す行為ではなく、まだ死ぬ時期でなければ、そう言ったところで死にはしない。それどころか、場合によっては「まだ死んじゃいられない」と持ち直すこともあるという。
私の父もなくなる前、予想外に早く危篤(きとく)になった。朝9時か10時に、職場に危篤を知らせる電話が来た。私は「明日〇時の便で行きます」と言って電話を切った。
同僚達(どうりょうたち)は驚いて、今すぐ行かなくていいのかと言ったが、私は父が待っているという謎の確信があった。そして長いお休みをもらうことを考えて、仕事を片付け引継ぎをした。
すると夕方再び電話があり、意識が戻って持ち直したという。
予定通り翌日父のもとへ行くと、普通に会話ができた。休日ということもあり、親せきが次々見舞いにやって来て、思いのほか元気な父の様子に安堵(あんど)して、賑やかなくらいだった。
彼は和やかに別れの挨拶を済ませて、翌日にはまた昏睡状態に陥った。ようやく父と二人きりになれた時、彼に意識はなかった。それでも聞こえていることはわかっていたので、私は心からの謝罪と感謝を伝えた。
翌々日の早朝、目が覚めた私は父の様子を見に行った。そっと部屋の戸を開けると呼吸音が聞こえたので、安心してもうひと眠りしに部屋に戻った。
それから1時間もしないうちに、母が「お父さんが息してない!」と言ってきた。父は隣りで寝ていた母も全く気がつかないうちに、静かに旅立っていった。
きっと父は、世間知らずだと心配していた母に見られていたら、後ろ髪ひかれることがわかっていたんだろう。
案の定、母はその後多少問題を起こしたが、父が万全の準備をしてくれていたおかげで、家族が実害を被(こうむ)ることはほとんどなかった。終活ノートが残されており、死後の手続きで困ることもなかった。
父も母も死後の準備も終わり、家族との挨拶も済ませた。もう心残りはなかったと思う。そして、家族が駆け付けるよりひと足早くひっそり旅立った。二人共まだ生きてるみたいに体が温かく、医療関係者が感心するほど穏やかな顔だった…
死に逝く人のほとんどは、遺された人の幸せを望んでいると思う。もしかしたら、誰かの死に目に会えなかったと、自分を責める家族や友人を見て、亡くなった人は心を痛めているかもしれない…
母とは50年以上親子だったが、本当に心の通った時間は、ほんの数週間と短かった。しかも彼女は、その時もう病院のベットの上でほとんど身動きもできない状態で、ほどなく会話も難しくなり、心通う思い出もほとんど残らなかった。
母が亡くなって一年が過ぎた頃から、もっと早く和解できていたら…と、ふと寂しく思うことがある。いやいや、そもそも心からの和解ができたこと自体が、ほとんど奇跡(きせき)なのだから…人間の欲には本当にキリがない。
参考文献
『奇跡的治癒とは何か』 バーニー・シーゲル著 日本教文社
『シーゲル博士の心の健康法』 B・S・シーゲル著 新潮文庫