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「阿部一族」を読んで死について考える。

とにかくみんな死にたがる。いや、武士たるもの死に際が肝心。華々しい最期を飾れるようにと、子供の頃から教育されているのだろう。いかに潔く死ぬか。そういう意味で「殉死」は、武士らしい真っ当な死に方だ。忠義を立てるということのお手本のようなものだ。自分の信念を曲げずに戦い、潔く死ぬ。武士らしい。

『阿部一族』を読むと必然的に自分の「死」と「人生」について考えてしまう。自分はどうやって死にたいか。仕事柄「死に方は選べないって言いますからね」なんて話すこともある。
例えば「最期は自分の家族(できれば、孫やひ孫もいる大家族)に囲まれ、惜しまれ、悲しまれながら安らかに永眠したい」なんて理想を持っても、自分の子供が結婚するかも分からないし、孫が生まれるかも分からない。というか、まず自分が結婚しなきゃ!だし、病院や家で安らかに死ねるとも限らない。自分の人生もそうだけど、家族の人生も思い通りにはならない。

行動経済学の本には

物語とは重大な出来事や記憶に残る瞬間を紡ぐものであって、時間の経過を追うものではない。
人生は連続した時間としてではなく、象徴的な時間によって代表されている。
「幸せの総量」も、全人生にわたって実感された幸せの合計ではなく、人生における代表的な時間の幸せとして認識される。
その経験が次第に良くなったのか悪くなったのかということと、最後はどう感じたかということ。
エンディングがすべてを決める。

「ファスト&スロー」ダニエル・カーネマン

と書かれている。
そう考えると、自分は死ぬべきタイミングを既に逃している?ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョップリンのように閃光のように輝き、伝説になるパターンもある。アレクサンドロス大王も32歳で死んでいる。スティーブ・ジョブズが亡くなったときは、たくさんの人たちが献花に訪れ、早すぎる死を悼んでいた。自分に当てはめると、、人生のピークは過ぎ、すでに緩やかな下り坂を歩んでいるんじゃないか?
いや、そんなことは無いか。別に取り立てて重大な出来事が起こらないにしても、平穏な老後を送って、苦しまなければ、それなりに満足して死ねるのかもしれない。別に映画や小説みたいに、誰かを楽しませたり称賛してもらうために生きている訳ではないのだ。

でも、やっぱり退屈でお金もなく、体調も悪くて、まったく楽しくない老後で、病気で苦しんで死ぬというのは、けっこう辛い下り坂に感じる。「老後に2000万円の資金が必要だ」なんて言われているが、どう計算しても今の収入でそんなお金が貯まるはずがないし、「死に物狂いで金を稼ぐ」みたいな気持ちが全く湧いてこない。借金を抱えるようなリスクを取ったり、健康を犠牲にしてでも働こう!という気持ちが湧かない。中国では最近、こういう思考の人達を「ねそべり族」と呼ぶらしい。別にグウタラしているわけではないのだよ、私は。

でも、もし老後までこの読書欲を維持できるなら、そして視力や認知機能を維持していけるなら、(「戦争と平和」が全く読み進んでいないことや、ほぼ内容を忘れているドストエフスキーの本のことを考えれば)それなりに楽しい人生を送れそうな気もする。幸いなことに読書はそれほどお金がかからない。

結局はあまり考えすぎても仕方ない。人間は自分の過去の経験からしか未来を予測できないし、未来や過去のことばかり考えて不安な気持ちを抱くのは精神的にも良くない。そんなときは『モンテ・クリスト伯』の言葉を思い出して落ち着こう。

「待て、然して希望せよ」

「モンテ・クリスト伯」アレクサンドル・デュマ

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