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灼熱の街――ロサンゼルスを追いつめる「戦場」の惨劇
本作品は、2025年1月9日に報じられた山火事のニュースをもとにしたフィクションです。登場人物や物語の展開は創作であり、実在の人物や団体、出来事とは一切関係ありません。
どこまでが夢で、どこからが現実なのか。そんな境界があやふやになるほど、ロサンゼルスの夜空は赤黒い炎に染まり続けていた。
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山火事が発生したという速報を見たのは、一月七日の夜のことだった。スマートフォンの通知音がやけに甲高く響き、僕は慌てて画面を覗き込んだ。画面には「パシフィック・パリセーズ付近で大規模な火災発生。避難指示」とだけある。いつもなら地元の火事程度ではここまで緊迫したアラートは来ない。これはただ事ではないと直感した。
実際、テレビニュースをつけると、画面いっぱいにオレンジ色の火の海が映し出されていた。パシフィック・パリセーズという高級住宅地で、いままさに火の粉が降り注ぎ、屋根を焼き崩している。リポーターの声はかすれ気味で、背景のサイレンと叫び声が邪魔をしていた。何を言っているのか半分しか聞き取れないが、要するに「極めて危険」ということだけは理解できた。
翌朝、僕は仕事の電話を一本入れたあと、車に乗り込んだ。行き先はイートン地区。友人のマークが住んでいる場所だ。彼から「避難するかもしれないが、まだ迷っている」という連絡があった。住民が十万人も避難するという規模の火災など、まるで想像がつかない。とにかく彼を手伝いたい一心でハンドルを握った。
ところが、街に出てみるとすぐに渋滞に捕まった。どこもかしこも非常用の車両や避難する住民の車で詰まっている。車列は進まないくせにクラクションだけは絶え間なく響きわたる。人々の顔には焦りの色がにじんでいた。助手席で携帯を確認していると、新たな火災が発生したとのニュースが飛び込んでくる。パシフィック・パリセーズだけでなくハースト地区やウッドリー地区でも火が見つかったらしい。もう全部で五つの火災が同時進行しているという。
「すでに五人の死亡が確認され、被害棟数は一〇〇〇を超える見込み。合計十三万人以上が避難……」
車内のラジオから、機械的に数字が読み上げられた。一瞬、頭の中で数字が暴れだす。五人の死者。被害棟数一〇〇〇以上。焼け落ちて灰になった家の姿を想像するだけで、胸がむかつくような嫌悪感に囚われる。こういうとき、人は案外無力なのだと痛感させられる。
しばらくしてようやく車の流れが動き出したが、ほどなくして警察による検問所にぶつかった。火災区域の近くへは一般車両を通さない方針らしい。仕方なく車を路肩に寄せると、そこでボランティアのような人たちが慌ただしく行き交っているのが見えた。消防士や医療関係者の姿もちらほら。その誰もが埃まみれで、息を切らしている。
一人の消防士に声をかけてみた。
「イートン地区に住む知り合いがいて、避難を手伝いたいんですが」
すると彼は首を横に振った。
「ここから先は厳しいです。予測不能な風のせいで火がどこへ飛び火するかわからない。イートン地区もそうですし、パシフィック・パリセーズ周辺は特に危険です」
それでも諦めきれない僕に、彼は少し気の毒そうに声を落とした。
「もし知り合いに連絡が取れるなら、何としてでも避難するよう伝えてください。消火に必要な水が全然足りなくて、僕らも動きが取りづらい状況なんです。連邦政府からの支援は始まっていますが、とにかく火の勢いが強くて……」
検問所を離れ、やむを得ず車を引き返す。戻りながらマークに電話をかけたが、何度かけても留守番電話に切り替わってしまう。避難が始まっているのだろうか。それともバッテリーが切れてしまったのか。あるいはもっと別の不安が脳裏をかすめる——火から逃げるタイミングを逸してしまったのでは、と。
翌日、仕事で顔を出さなければならない用件があり、一度自宅へ戻った。日々、煙は広がりを見せ、外に出るとじりじりとした焦げ臭さが鼻を突く。空は薄い灰色に包まれ、晴れているのに太陽がかすんで見えた。気温はそれほど高くはないはずなのに、空気自体が熱を帯びている。思わず息苦しくなるほどだ。
九日昼、ニュースが断続的に流れている。パサデナ消防署長がインタビューで「非常に不規則な風が原因」と繰り返し強調していた。「この風が止まれば、火勢は一気に弱まるかもしれないが、拡大し続ける可能性もある」と、何とも頼りない言葉だ。パシフィック・パリセーズとイートン地区では鎮火のめどが立たないまま、避難を続ける住民が増えている。消防ヘリが放水を行う映像が流れるが、炎の大海にスポイトで水を垂らすようなものにしか見えない。
マークからはまだ連絡がない。もともと彼とは大学の交換留学で知り合った仲だ。しばらく会っていなかったが、去年偶然再会してからは二度ほど食事もしている。せめて「無事だ」という一報さえあれば、ずいぶん安心できるのにと思いながら、SNSをチェックする。イートン地区のハッシュタグは混乱した情報で溢れていた。誰がどこに避難した、どの道が通れない、どこそこが燃え広がっている……中にはデマらしき投稿も混じる。そんな中でふと「イートン地区にいるが、どうしても車が出せない。助けが必要だ」と書いたものを見つけた。投稿主は女性のようで、「母が足を痛めている。火の勢いが酷いが、消防も警察も手が回らない。どなたか助けて」と切実に訴えている。
僕は心が騒ぎ立って仕方なくなった。マークの連絡がないのはもちろんだが、こうしてSNSで助けを呼ぶ人がいるなら、できる範囲で手を貸したい。
しかし、イートン地区へ近づくのは困難だ。検問所は夜間も厳戒態勢を敷いているという。無理をすれば自分も危険に巻き込まれる可能性がある。だが、火事は二日目の夜を迎えても容赦なく広がり続け、今や五人の死亡が確認されている。さらに増えるかもしれないとニュースで言っている。ここで黙ってただ様子をうかがっているだけでは、何も変わらないように思えた。僕は仕事先に断りの連絡を入れ、車のトランクにある程度の水や簡単な救急セットを積んだ。もう一度検問所へ行くつもりでエンジンをかける。
日が暮れると、空一面に広がる煙はさらに黒さを増し、その先から赤い炎がゆらゆらと揺らめいているのがわかる。まさに戦場のようだ、と誰かが言ったが、本当にそうかもしれない。道路脇には避難命令を受けた人たちがスーツケースを抱えて途方に暮れ、あるいは指定された避難バスを探している。救護テントが設置されているところもあるが、混雑していて機能しきれていないように見えた。遠方から派遣された消防士やボランティアたちが走り回っているが、その人数でカバーできる範囲は限られているらしい。
想像していた通り、検問所で警官に止められた。しかし事情を話してみると、彼は厳しい表情のまましばらく黙考した末に、周辺の地図を差し出してくれた。
「公式には通れない道だが、こっちの裏道なら比較的火の手が少ない。煙はあるし視界も悪いが、自己責任で行くなら止めはしない」
そう言って紙の上に赤いペンでルートを示した。その道をたどっていけば、イートン地区の外れにある幹線道路に出られるらしい。だが、その先へ進むかどうかは僕次第だ。それなりのリスクを負うことになるだろう。警官は「すでに州や連邦の支援が動き始めているから、できればプロに任せてほしい」と言った。だけど僕の頭の中には、マークと、あのSNSで助けを求めていた誰かの顔がぐるぐる回っていた。僕は意を決してその道を進むことにした。
案の定、裏道の入り口には鎖で閉ざされたゲートがあった。警官に聞いていた通り、一部壊れていたので、辛うじて車を通せそうだ。周囲はうっすらと煙に覆われ、街灯はほとんど機能していない。ヘッドライトを頼りに進むと、建物の影が不気味に揺れて見える。道端には灰が積もり、焦げた木の枝が散乱していた。風向きによっては炎の熱がじりじりと迫ってくるのを感じる。背筋が凍る思いだった。
数分走ると、前方の空が赤くぼんやり染まっているのが見えてきた。おそらく火元はあちら側だろう。僕は内心で急ぎたい気持ちを抑えながら、慎重に車を進める。唐突にバチッと大きな音がして、フロントガラスに何かが当たった。枝か瓦礫か、それとも飛び散った火の粉かもしれない。心臓が跳ね上がる。だが、車を止めるわけにはいかない。
やがて視界が開け、比較的広い通りに出た。そこはイートン地区の入り口にあたる。だが人影はほとんどない。表通りは避難した人や消防士で賑わっているはずなのに、ここはまるでゴーストタウンだ。建物の窓には明かりもなく、煙が漂うだけ。嫌な胸騒ぎを覚え、思わずハンドルを強く握った。
ふと、あたりを探るように走らせると、道端に一台の車が止まっているのが見えた。運転席のドアが開いていて、人気がない。エンジンもかかっていない。何かトラブルに見舞われたのだろうか。降りて確認しようか迷っていたとき、その車の後部座席から人影が現れた。若い女性だった。表情は疲れ切り、顔と髪には灰がこびりついている。彼女は僕に気づくと、片手を挙げて近づいてきた。
「助けてください……。母が足を怪我して動けなくて」
どうやらあのSNSの投稿者だ。彼女は少し安心したような顔を見せながら、車の後部を指差した。そこには高齢の女性がシートに横たわっていた。右足に即席の包帯が巻かれている。動かそうとすると激痛が走るらしく、苦しげな呻き声を上げていた。
「消防も警察も人手不足で……そもそもこの辺りまで来られないみたいなんです。通報しても待ってろと言われるだけで」
女性は半泣きになりながら続ける。僕は車のトランクを開け、水と応急セットを取り出して彼女に手渡した。まずはお母さんに水分を摂ってもらい、痛みを和らげなければならない。
「大丈夫。僕がなんとかする。避難所はここから北東に行った先で開設されているはずだから、一緒にそこを目指そう」
運よく僕の車はまだ動く。彼女たちの車はバッテリーが上がっていて、タイヤもパンク寸前の状態だった。荷物を移すよう促し、僕の車でその場を離れようとしたとき、彼女が思い出したように言った。
「そうだ、途中で男性に声をかけたんです。灰色のパーカーを着ていて……。同じようにイートン地区に友人を探しに来たと言っていました。でもあの人も行方がわからないんです」
灰色のパーカー。それはマークの特徴と一致する。彼もきっと誰かを助けようとして、この近くまで来ていたのだろうか。彼女が出会ったのは、はたしてマークなのかどうか。確認したい衝動に駆られたが、まずは目の前の怪我人を安全な場所へ移すのが先だ。もしマークが本当にここにいるなら、どこか安全な場所で姿を現すはずだと信じた。
シートベルトを締め直し、僕は車をゆっくりと発進させた。後部座席では負傷した母親がうめき声を上げる。視界は相変わらず煙で悪いが、北東方向に少し走れば検問所の外側に出られるはずだ。救急車もそこならいる可能性が高い。僕たちは闇と煙の中を抜けていく。視界の先、赤い光が左手に揺れている。まるで僕たちの行動を監視するかのように、炎は地獄の底から笑うようにぼうぼうと音を立てていた。
なんとか主要道路まで出ると、そこには臨時の医療テントが設置されていた。救急隊員が僕の車に駆け寄り、すぐに担架を運んできてくれる。ホッと肩の力が抜ける。一方、テントの隅には同じような怪我人が何人も横になっているのが見えた。救護する人間と救護される人間、どちらが多いかは火を見るより明らかだ。僕は彼女たちを救急隊に任せ、しばらくその場でマークの姿を探した。だが、それらしい人物は見当たらない。
もしかしたら、もっと先の避難所へ移動したのだろうか。ふとそんな推測がよぎる。あるいは彼が助けようとした別の誰かと一緒に、まだあの煙の中にいるのかもしれない。胸に重苦しい不安が押し寄せる。遠くでサイレンが鳴り、医療テントに追加の毛布が運び込まれてくる。混乱が続く現場で、僕はただマークのことを案じるしかなかった。
翌日、少し状況が落ち着いてきたとの情報が入り、僕は改めて避難所や周辺を回ってマークを探した。そう長いあいだ行方不明でいるはずがない、と信じたかったからだ。けれど膨大な数の避難者が入り混じる混乱の中、個人を探しだすのは容易ではない。それでも「灰色のパーカーを着た人を見かけた」という証言が何度かあった。彼がどこかで無事に生きているのは確かな気がする。捜索の合間に目に入る惨状は目を背けたくなるほどだったが、それでも生存の手がかりを得られるたびに希望の光が差すようだった。
夜になっても炎は依然として鎮火の兆しを見せなかったが、風はやや収まりつつあると消防署は発表した。火災の規模は恐ろしいほど大きいが、いずれは必ず沈静化する。そう信じながら、誰もがそれぞれの理由で行動していた。僕もまた、マークの無事を確かめるまでこの場を離れるつもりはない。いつからか、外の世界は真っ赤な混沌に覆われ、僕の視界はその灰色と赤色だけで埋まっている。それでも一瞬、暗闇の隙間から月の光が覗いた気がした。いつか、炎の幕がすべて降りた先に、新しい朝がやって来るはずだ。そのときこそ、僕はこのロサンゼルスの火災をくぐり抜けた人々の再会の瞬間を見届けたいと思っている。
パシフィック・パリセーズもイートン地区も、ハースト地区もウッドリー地区も、人々の暮らしがあった場所は炎によって蹂躙された。それでも倒れたままではいられない。だからこそ、誰もが自分の大切なものを守るために足掻いているのだろう。数日後、もしマークと再会できたら、僕は最初に何を言おうか。言葉はいらないかもしれない。彼が生きていてくれる。その事実だけで十分だと、今はそう思える。
夜が深くなった。遠くに見える火の手はまだ衰えてはいない。荒れ狂う炎の奥で、この街は小さく震えている。僕は防塵マスクをつけ直し、配給所で受け取ったボトルウォーターを片手に、焼け焦げた空気を睨みつける。まだやるべきことがある。行方のわからないマークを探し、必要とされるなら誰かを助ける。そんな小さな積み重ねが、いつかこの災害を乗り越える力になるはずだ。
灰色の空。そこを吹き抜ける不規則な風。くぐもったサイレンの音。押し寄せる煙の波。どれもが暗示しているかのように、この火災は簡単には終わらないかもしれない。けれど、人のつながりが断たれてしまったわけではない。生命を支え合う絆を火は焼き尽くせない。それだけを心の支えにして、僕は夜明けを待つ。いつの日か、黒煙の晴れた晴天のもとで、マークと笑い合える日がやってくる。そう信じることが、いま僕ができる唯一の行動原理だった。