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人生に対する最期の自己評価──『クヌルプ』読書感想文
私が10代の時に好んでいた小説は、「切り抜き」の物語が多かった。
大衆エンタメを意識した作品は、主人公の人生のハイライト場面にフォーカスして「切り抜かれた」ものが多い。
その主人公の生において、一番輝かしく劇的な一幕を切り抜くのは、受け手の心を躍らせ、喜ばせる物語を創造する上では当然だ。
当時、そういう話を好んで読んでいて、たまにふと思っていたことがある。
物語の中で大団円を迎えた主人公の晩年や死に際は、どうなんだろうなと。このきらめきがすっかり失われているのかな、と。
誰にでも老いはくるし、スーパーヒーローな主人公も、いずれ病んで、ボケて、衰えて、盛者必衰みたいな扱いを受けるのかなあ……なんて。
まだまだ衰えを知らない10代のわたしは、他人事のように考えていた。
そこから20年以上経ち、自分の人生の終末に対する恐れ、自分の人生に意義を見出そうとする切実さは年々水を吸うように膨らんで、重くなる。
誰の目にも明らかな、きらめく一瞬はどんな人生にだって存在する。
けれど、その他の99.9%くらいは、驚くほど退屈だったり、信じられないほど平凡だったり、そういう日常の中に埋没している。
小説の主人公だって、実は然りだ。その人生には、真夏の太陽のような煌めきと風前の蝋燭のようなともしびが、きっと同居しているはず。
99.9%の中から抽出した0.1%のエッセンスが、他者の驚きや興奮を引き出す物語となって昇華されているだけ。
人生って、なんなのかな?
他者から見てキラキラピカピカ輝いて見えること。
それだけが価値なのかな?
そんなことを考えさせてくれるのがこの『クヌルプ』だ。
クヌルプってさあ……
この小説の主人公のクヌルプ。
こういうびっくりするほど純粋な人っているよね、とため息をつきたくなる。生きかた上手なように見えて、くっそ下手な人間。
年上の女性に虜になり、学校をドロップアウトし、「普通の人生」に戻ることができずにズルズルと流れに身を任せるようにさすらいを続けるクヌルプ。
見目がよく、他者への気遣いに溢れ、機転のきく愉快な陽気さと、どこか深い思慮を匂わせる内気さを兼ね備えて、誰からも愛され歓迎されるクヌルプ。
神出鬼没で、何にも縛られることのないように見える、自由なクヌルプ。
確固たる生活の礎のない根無草のクヌルプ。
意志ではなく、流れに身を任せて漂泊し、
ずっとずっと孤独を感じながら、
何かになれると人に言われ続け、自分でも半ばそれを信じながら何も成せなかったと自虐し、病に侵されて独りその生を閉じる。
他者からみれば野垂れ死にだ。
よく言えば、心が繊細で素直で優しく、悪く言えば、頭が硬いアホ。
話の中で、青年期を過ぎようとしているクヌルプに対し他者はいう。
「じゃ、きみは自分の送ってきた生活に満足しているんだね?」と彼は微笑しながら言った。
「それなら、もちろん何も言うことはない。だが、もしそうでなかったら、きみのような男がほんとに惜しいことだ、とぼくは言いたい。何も牧師や教師になるには及ばなかったろうが、自然科学者か詩人なんかにはなれただろう。きみは自分の分の天分を利用したか、さらにみがきをかけたかどうか、ぼくは知らないが、きみ自身のためにだけ天分を十分に使ったね。それともそうじゃないかい?」
「なあ、おまえはそんなみじめな無宿者よりもっとましなものになれただろうに」と彼はゆっくり言った。「ほんとに気の毒なことだよ。なあ、クヌルプ、わしはたしかに信心家じゃないが、聖書に書いてあることは信じている。おまえもそれは考えておかなきゃいけない責任を負わなきゃならないが、それがそうたやすくはゆくまいて。おまえは才能を持っていた。ほかの人たちよりまさった才能を持っていたのに、何にもなれなかった。こんなことを言ったからって、怒っちゃいけないよ」
本当に、周囲がひとこと言いたくなる気持ちがわかる。
かといって、聖職者になったり職人になったり、「安定」とか「普通」の道を歩んで、家族をもうけて生きる人生を送ったら、彼は満足したのか。
誰にでもある迷い
自分の人生を評価する他者の意見を、冗談混じりにのらりくらりと交わしていた彼自身も、実は自分の生き方を肯定していたわけではなかったことは死の直前の神(もしかすると自分自身?)との対話で明らかになる。
「しかし、それもみな昔のことでした。あのころは私もまだ若かったのです! なぜ私はあんなにたくさんのことから何ひとつ学ばなかったのでしょう? まともな人間にならなかったのでしょう! まだその時間はあったのに」
心の中に葛藤は常にあった。それでもいつも自分に言い聞かせていたのだ。
「これでいい」「これで満足だ」と。
そうやって人並みに迷いながら苦しみながら生きてきて、最期の最期にクヌルプは自分の人生を真から肯定する。
クヌルプの救いは、神のこの言葉にあった。
「さあ、もう満足するがいい」と神さまはさとした。「嘆いたとて何の役にたとう? 何ごとも良く正しく運ばれたことが、何ごとも別なようであってはならなかったことが、ほんとうにわからないのかい? ほんとにおまえはいまさら紳士や職人の親方になり夕方には週刊誌でも読む身になりたいのかい? そんな身になったって、おまえはすぐまた逃げ出して、森の中でキツネのそばに眠ったり、鳥のわなをかけたり、トカゲをならしたりするのじゃないだろうか」
〜中略〜
「おまえは愚かなまねをし、ひとに笑われた。だが、わたし自身がおまえの中で笑われ、愛されたのだ。おまえはほんとにわたしの子ども、わたしの兄弟、わたしの一片なのだ。わたしがおまえといっしょに体験しなかったようなものは何ひとつ、おまえは味わいもしなければ、苦しみもしなかったのだ」
解釈は人によって異なると思うが、「やったことだけがすべて」という風に私は解釈したい。自分が選ばなかったこと、やらなかったことに対して、「あっちの方がよかったかも」と思うことはたくさんある。
でも、そちらのルートが正解だなんて、誰がいえるというんだろう?
結局、他者はどうしたってクヌルプの人生を評してこう言うのだろう。
彼は魅力を持って“いた”
自由気ままに生きた”報い”が、孤独な死だった
あの時に道を踏み外していな”ければ”
そうやって彼の生を勝手気ままに評価するのだろう。
自分の生への満足度と、他者からの評価は当たり前に違う。
だからこそ、他者がどうこうではなく、死ぬ時に自分自身が満足して死ぬことができれば、それが一番の幸せだと思う。
私自身は死に際に、いったいどのように自分の人生を解釈して死ぬのだろうか。そんなことを考えさせてくれる小説だった。
今回ヘッセの作品を初めて読んだので、その思想の背景や傾向をきちんと捉えられていないファーストインプレッションの感想です。他の著作を読んでから再度読んでみたい。
『車輪の下』はもとより、『デミアン』、『シッダールタ』あたりはとても読みたいですね。