小さいことは、大きいこと
前提として、
昔々の地方の農民や、庶民大衆は、
物言わぬことが、美徳。いやそれ以前に、
物を言わないという時代。
現代のわたしも、もの言うこと、
喋るということが苦手だ。
会議とか
飲み会とか、
どんな場面であれ、
自分から物をいう。
人のおしゃべりを遮ることさえできない。
だけど、書くことはできる。
それは特殊、だとして、
昔々の物言わぬ頃に、「喋れ」ということには
よほどの、信念があったんだろうと思う。
現代で、喋れない人に、喋れといえば、
パワハラだ!となるのかもしれない。
現代において、身分の上下や、
差別的な階級というのは無い。
無いけれど、年齢や、会社上の上下や、
キャリアや立場はどことなく平等ではなくて、
(それも思い込みちゃあそうなんだけど)
喋りを躊躇うこともある。
でも、書くことはできる。
そういうことが一目でバレてしまう恐ろしさ。
あ、そうかもしれない。
私が喋らないのは、自分の浅はかさを
あえて曝け出すことへの恐怖。
至らなさゆえに批判されることへ畏怖。
だけど、書くことはできる。
何が違うんだろう?
喋ることと書くことと。
喋ることは、つまり目の前に人がいる
ことが前提なので、リアクションも必然。
だけど、書くことは孤独であり、
リアクションを前提にしていない。
だから、書ける。失うものはない。
と、思い込ませては、書く。
大きなものに、巻かれがちなわたし。
大きな声に、流されるわたし。
大きなものへの恐怖と畏怖。
読み映え、世間映えのする大きなものには
届かなくても、いやむしろ、届きにくいから
こそ、
小さなものへの、敬意と、感謝。
行間や、合間にこそある、
小さな声にこそある、
なんとなく見逃されがちなものの方に、
目を向けることはできる。
自分は小さいから。
喋り言葉はどうしても、大きくなるが、
一文字、一文字を拾いやすい文章や物語り、
また自分が書く文字には、
敏感になれる。なってもいい温度がある。
通り道に落ちているもの、
ふと見上げれば、いつもと違う空、太陽。
風。木、川。
そこに、生活がある。
生活の中に自分が在る。
世の中とか社会とか、広く大きくなくていい。
今目の前にある小さな世界に、
自分を照らしていくことでこそ、
みえてくる世界、そして自分が在る。
太字
下線
赤字
網掛け
斜体
小さき物を大きく見せることで、
相手には伝わりやすくなるけれど。
そこで失われる
自分。
小さなものに、目を凝らし、耳を傾けて、
光を照らす中に、自分がいる。
相手のそれを、探そうとするなかで、
相手とより近くなれる。
これは、びっくり!。
今いる場所には今いる自分しかいない、
とおもってたけど、なんてことはない。
そこに、敬意と感謝がある、歴史がある。
小さいものは目に見えるけれど、
目には見えないものにさえ、目を凝らす。
そこに、自分がいて、だれかが生きてきた
なにかがある。
大阪にも、自分の今目の後ろの足跡にも。
で、大きくても、小さくても
それはどっちでもいいのだけど、
なにかに捉われず、先入観を捨てて、
今日という今この瞬間を、
感じとっていたい。
小さいものほど、大きいものかもしれない。
大きいなかに、小さな大きなものがある。
今日もお読みいただきありがとうございます。
朝と夜に違う2冊を読みますと、
どこかでなにかが繋がるのと、
一面的に、捉えたり捉われなくなるから、
最近、それにはまっています。
写真の、真昼の白い月が、
月は丸くて黄色いだけじゃないよ、
と、教えてくれているようです。
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