
もしも、いのちに限りがないなら。
もしも、人が永遠に
死ななかったら・・・・・・
僕たちのいのちに限りがあるということには、とても重要な意味があります。
限りがあるということは、やはりそれだけ特別な価値があるということですから。
つまらない大人にならないために」
小山薫堂
いのちはなにより大事。
大事なのに限りがあるのか、
大事だから限りがあるのか。
限りがあるから大事なのかな。
世の中の「限りあるもの」ー
たとえば、水や電気、食料や土地。
ふだんは「限りないもの」にみえるけど、
「限りある」と気づいて初めて大事にできる。
時間、家族、今あるご縁もすべて。
どうしたら、それに気づけるかというと、
「もしも」発想なんですね。
それにしても、
「自分がもしも死ななかったら」なんて、
考えましたことがないので、
死という重く遠いテーマもなんだか、
急に身近で軽やかになります。
14歳向けの著書だけど、
その年齢のうちから、「死を思う」ことは
限りある青春をより、生かしてくれそうぇす。
あ、42歳でも同じですねきっと。
では、人間が永遠のいのちを手に入れたらどうなるでしょう?きっと多くの人が、「永遠に生きることができるなら、それほど嬉しいことはない」と思うかもしれませんね。
でも、僕はそう思いません。
子供の頃からドラゴンボールを見て育ったからか、「不老不死」を求める敵役って多くて。
まあ、たしかに長生きできたらいいよね、って
いうのは刷り込まれてきました。
でもよくよく考えると、だいたい敵役。
主役は、不老不死よりも、今を仲間と生きる
ことを、選んでいる気がします。
そして、主役はたいてい短命で。
長さよりもいのちの濃さを、語りかける
ようです。
まず考えられるのは、いろいろなことが乱暴になってしまうだろうな、ということ。
車の運転にしても、「安全運転」という意識がなくなり、食べ物にしても「ちょっとくらい関っていても関係ない」というように、世の中がどんどん乱れていってしまう。
安全は、限りあるいのちが前提なんだ!
死なない世界は、乱暴で。
死んでしまう世界の方が、安全。
なんだか不思議で、なんだか愛しい。
また、僕たちのいのちに限りがなかったら、きっと「悲しい」とか「楽しい」という感情も消えてしまうのではないでしょうか。
たとえば、女の子にフラれたとしても、「長く生きてりゃ、いつかは付き合えるだろう」と思ったりして。それによって、楽しいと思えることも少なくなってしまうような気がします。
感情までも左右してしまうの!
嬉しいこともそうだけど、
「悲しみ」を失うことが、悲しい。
ふだんは、悲しみたくなんてないと
思うし、悲しみなんてなくなればと思うけど。
いのちに限りがない世界では、
悲しみがないと思ったとたん、
この限りある世界が愛しくなる。
人間が、人間であれる。
自分が、自分であれるんだなあ。
僕は「おくりびと」という映画もつくっていますが、常日頃思っているのは、「いのちとは、生きることのバトンタッチ」だということです。いのちというのはどの時代でも絶えず、新しく生まれてきます。皮膚のようにその時代その時代を包み込む新しいいのちたちが、それぞれの歴史をつくり、世の中は成り立ってきました。
皮膚。
何層にも生まれ変わってきた皮膚。
これは、一人の人生でも
あまたの傷をおってはかさぶたで、
再生してきた歴史があるんだけれど、
それが何世代にもわたっているなんて。
皮膚がおおってくれること。
皮膚感謝。
だから今、自分が生きているということは、前の時代の人からバトンを渡されているからであって、そのバトンを持っているあいだは、一所懸命走ってみるしかありません。
「もう無理だ。もう俺は走れないよ」となったら、次の人にバトンを渡す…・・・・。そういうふうに、いのちというものはめぐっている。
可能性は無限大、って、若い人にも
子供にも、大人にだっていうけれど。
ほんとうはそれは、
「限りある命のかぎりの、可能性」
をいかそう、ってことなんだな。
かぎりと向き合うことで、
かぎりをつくることで、
そのいのちは、より大きくなる。
一世一代とかぎらなくても、
2世代3世代とバトンを繋ぎ、
皮膚を再生していく世の中でもある、
悲しみと憂いの世界の中で、
すでに紡がれた世界に生きている自覚。
からの、わたし。
きのうよりちょっと愛しい私に気づく。
きょうもお付き合いくださり
ありがとうございます。
ふとそこに止まる鳥も、つないできたいのち。