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書くことは、まるで音楽
佐藤一斎の言葉というのは、どれもそれほど目新しいものではないことに気がつきます。実際、言志四録には、もちろん彼自身が工夫した言葉もあるのですが、これは自分が考えた言葉だと誇っているところは一つもありません。
齋藤孝さん
この本を読んだのは、15年前で、
分厚い言志四録を読んだのは、10年前で
10年越しで読むとまた味わいが違います。
彼がもっとも重視しているのは、オリジナリティではなく、それが本当に役立つ言葉なのかどうかだからです。
私たちはついつい目新しい言葉や概念に飛びつきがちですが、佐藤一斎の言葉を通して、時間の蓄積がある、しっかりとした言葉の価値を知っていただきたいと思います。
オリジナリティが目的になりがち。
いかに人と違う価値、noteならユニークさを
書けるか!が、目的になっちゃうときがある
んですが、
「それが本当に、だれかの役にたってるか?」
は、忘れやすいので改めて、大切にしたい。
一朝一夕ではない、時間の蓄積からくる言葉。
軽やかさと重さのバランス。
人との関係は「音楽」だ
一気息、一笑話も、皆楽なり。一挙手、一投足も、皆礼なり。(緑・78)
一呼吸も、自然の音楽であり、談笑も人心を私らげる音楽である。手を一つあげるのも、足を一つ動かすも、皆礼である。
すべてを「音楽」とみると、きくと面白い。
音楽に詳しいわけではないですが、
多くの人にとって学校や日常生活にあるその
「音楽」と、重ねることで、見えるものがある
という軽やかさと味わいの深さ。
私たちは音楽というといわゆる「楽曲」をイメージしますがここで言っているのは、もっとずっと幅広く、そして、人の心と精妙につながっているものとしての音楽です。
たとえば、琴のような楽器を弾くとき、昔の人は単に楽器を奏でているのではなく、奏者自身の心を弾いてるのだと考えました。
「単に楽器を奏でているのではなく、
奏者自身の心を弾いている」
メロディに乗せた「歌」も
言葉を紡ぐ「詩」にも、歌い手書き手の
「感情」があって、その言葉や文字に
その人となりの「音」が込められている。
また、そうした演奏を聴く人たちも、自分の心が琴の音と振動することで安らかになっていくのを楽しみました。
孔子も「楽」を大事にしていますが、それは、やはり楽を心の問題として捉えていたからです。
自分が発する「音」は、周囲を喜ばせ、
他人の役にたつために向けられる者ではなく、
自分自身が、一番聴いている。
あ、これが今の自分の心かー。
と、「音楽」する時に、気づく。
自分を鼓舞したり、慰めたり、そういう変化を
作ろうとしていたりなこともあれば、
ありのままに演奏する中で、自分に気づくため
そのもののために演奏することもあるんだろう
そう考えると、吸って吐くという一つの呼吸が音楽であり、人が笑い合うのもまた音楽であるという、この言葉の意味が理解できます。
音楽を心の問題として捉えたとき、音楽の神髄とは何かということが見えてきます。
実は、音楽の本質とは「抑揚」なのです。
かつての上司に
「おまえは抑揚がないなあ、喋る時」
とよく言われた。
抑揚つけたくてもつけられないので悩んだ。
抑揚があることは、聞き手を疲れさせるとさえ
思っていた。
あ、でも呼吸って、抑揚。
いつも一定ではなくて、
小走りした後はもちろん、
これから起こることへの緊張と興奮。
自分の体調の変化。
呼吸はいつもリズミカル。
自分自身のバロメータ。
呼吸は音楽だ。
呼吸の、吸って吐くというのも一つの抑揚です。
ゲーテは潮の満ち引きを「地球の呼吸」と表現しましたが、まさに潮の満ち引きも繰り返される抑揚です。
以前、美輪明宏さんが、「ラップは音楽ではない」と言っておられましたが、確かにラップにはリズムはあっても抑揚はあまりありません。
潮の満ち引きも、
月の満ち欠けも、
風の強さも弱さも、
まるで呼吸してるかのように、
振り子が左右に触れる抑揚がある。
どちらか一方では常にあらず、
常に揺れていることで自分を保っているよう。
自然は、音楽だ。
要するに、抑揚に緩急、強弱をつけることが、音楽の生命だということです。
儒学者はあまり笑わない印象がありますが、佐藤一斎は「笑う」こともまた音楽だと言っ
ています。笑いの本質は緊張と緩和ですから、やはり一つの抑場です。緊張と緩和によって心がほどける感じ、これを彼は音楽と捉えたのでしょう。
「心がほどける感じ」
は、顔がほころぶような感じ。
笑いは、ほほがゆるみ、
大きく口を開けてみたり、
まるで、それ自体が、
顔を音楽させるかのよう。
「無表情な人 一位」
高校のクラス文集でよくある
アンケート(クラスでいちばん〇〇な人)
があったときに獲得した。
なんとまあ、残酷なことを聞くのでしょう。
とおもったけど、いまおもえば、
高校の多感な時期で、自己が彷徨う時に、
そういう客観視されるチャンスは有り難いもの
だったかもしれない。
話はそれだけ、
「表情」にも抑揚がある人の方が、
信頼できる。
一緒にいて、楽しいんだろうな。
笑いもまた音楽であり、
顔もまた音楽させられる。
たとえば人との関係も、その場の空気を「今日はいい音が鳴っているね」とか、「よく笑った、楽しい音だね」というように音楽として捉えることもできます。
また、自分を楽器のように捉え、誰といるときにどんな音楽を奏でるのかと考えると、弦楽四重奏ではありませんが、相性のいい音を出す相手や、自分に合ったリズムを知ることもできます。
音楽は、呼応する。
自分のリズムに合うかどうか、
って、お喋りだったり、文章だったりで、
その、「相性」が、とってもよくわかる。
それって、他者との相性だけでなく、
自分との相性のことでもある。
自分が奏でる、音楽ー。
それは、歌でも、文章でも、
あらゆる創作でも、
はたまたある1日の呼吸を感じ取ることで、
自分との距離、
その日その時の自分との相性を知り、さぐる。
自分と音楽する。
さらに、バンドやオーケストラにベースやコントラバスといった地味な音の楽器が必要なように、周囲の人に対しても、一見地味だけど、この人がいるおかげで自分たちの奏でている音楽に深みが出るという見方ができるようにもなっていきます。
「一見地味」
じぶんはいつもそうだった。
クラスの中で、会社のなかで、
無表情で、物言わぬ私は、
じぶんの存在意義を感じずに
生きてきた。
自分の意見は言わず、聞くばかり。
大きな声に巻かれ、コトは進んでいく。
聞く人がいて、静かに問う人がいて、
組織もチームも、オーケストラも、演奏できる
指揮者は音を出さないが、心を出す。
地味の中にもある抑揚。
人と人が集う場・空気の中にもある抑揚。
礼もまた音楽同様、何気ない日常の動きの中に見つけることができます。何気ない動きを「これは礼だ」と評価できるようになると、礼の感覚がより一層広がっていきます。
音楽も礼もどちらも、本来、人の心を整える働きを持つものです。ですから、楽や礼の感覚を広げてみると、日常が豊かに感じられるようになるはずです。
「礼が音楽」とはびっくりです。
オリンピックの、各種目終了後の、
「礼」の姿に、胸打たれます。
あれだけの「死闘」を重ねた直後。
四年間の、葛藤と努力をすべて重ねた時間。
その緩急の、するどさ。
胸を高め鎮める、抑揚。
そして、讃えあい、感謝し合う礼。
平和の祭典は、そんなところにこそある。
noteは音楽だ。
書くことは、まるで音楽だ。
音楽は、平和をつくる。
きょうもお読みいただきありがとうございます
写真は、けさの
ひんぷん がじゅまる。
生命力。