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【映画 解体真書】3.「プラトーン」(86・米)
この作品には〈逆三角形〉が存在する。
まるで「両親」が並び、その下に「子」がいるように。
この場合の「子」とは、主人公クリス・テイラー(チャーリー・シーン)である。そして、「両親」とはバーンズ(トム・べレンジャー)とエリアス(ウィレム・デフォー)である。
バーンズは「憎悪」により戦う。エリアスは「慈愛」をもち戦う。「憎悪」も「慈愛」も本能である。そこには何の違いもない。何故なら、どちらも人々を殺すのであるから。
けれども、両者にはそれぞれ救いがある。バーンズもエリアスも死す。それにも関わらず、クリスの中には永遠に生きるのであるから。
バーンズは「親」としてクリスに生きるための冷酷さを命じ、エリアスは「親」としてクリスに生きるための寛大さを諭す。それを学ぶクリスは「子」として成長する。
それ故に、クリスは自らが選ばぬ「親」であるバーンズを殺すのである。
これは、単なる「尊属殺人」ではない。これこそが「子」が「親」を越えていく自立の証である。
この作品は、極論すると『戦争映画』の形態をとる『ホームドラマ』である。
そのとき、目の前に顕われる「親」は敢えてどちらであろう。
どちらの「親」であっても、何ら差異はない。どちらも、人生を歩む道を指し示してくれるであろう。
「親」として「子」が、このヴェトナムの戦場のような「社会」を生きていけるように、と。