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【映画 解体真書】18.「レイジング・ブル」(80・米)
この作品は、監督マーティン・スコセッシと脚本家ポール・シュレイダーの刻印が深く、明らかに垣間見える。
「罪と罰」そして「贖いと救済」の物語の深奥に。
主題は、まさに「妄想」である。両者の創り上げた『タクシードライバー』と同じく。
ボクシングの様式を用いた「暴力」
主人公(ロバート・デ・ニーロ)の「愛」の狭間に躍動する「嫉妬」
その源は「妄想」にしか他ならない。
「妄想」が主人公に「暴力」を喚起させて「人格」を形成させ「罪」を為させる。
その果てに在るのが「罰」なのである。
それは自らに「罰」を与えるかのように周囲から「暴力」を浴びる。
ボクシング然り。家庭生活然り。マフィアとの関係然り。
では、どのようにして「贖い」が成立するのか。
それは極論するとボクシングを捨てるときである。
形だけにおいても「暴力」の手段を捨て去る第一歩を踏み出すときである。
何故なら、少なくとも主人公にとって、ボクシングは〈スポーツ〉ではなかったのであるから。
自らの「憎悪」を吐き出す捌け口であったのであるから。
主人公はボクシングと訣別する。
ここから、「贖い」が主流として始まり出す。
見事な肉体を捨て去り、豊富な財産をも失う。そして、妻(キャシー・モリアーティ)をはじめ家族とも別れる。
それらは何を意味するのか。
それは「愛」を見出だす遍路である。
主人公は、場末の芸人と成り果てる。けれども、そこに悲壮感はない。
ようやく自らの「居場所」を見つけ、弟(ジョー・ペシ)にも優しく抱擁する。
そこに「救済」が確かに存在する。
主人公は、かつて何も見えていなかった。しかし、いまは見える。
何を?
それは言うまでもない。
スコセッシとシュレイダーは、常に「妄想」に囚われた男を描く。
けれども、そこには「罪と罰」だけをほのめかさない。
ただ「贖いと救済」をそっと提示する。
加えて、その手段をも。
「ザッツ・エンタテインメント!」