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【映画 解体真書】15.「天国の門」(80・米)ー改訂版ー

「映画には確固とした物語は必要ない」---マイケル・チミノ
「映画とは撮影された演劇ではない」---スタンリー・キューブリック

 これらの言葉は同じ意義を内包している。

 これを実践したのが、マイケル・チミノである。
「天国の門」1980年
 において。
 キューブリックも方法論こそ違えども実践した。
「2001年宇宙の旅」1968年
 において。ーー敢えて今作を挙げる。

1)チミノの作品には明らかに物語は足りない。編集で形作ろうにも不可能に近い。何故なら、チミノには「物語」を語る意欲が希薄であったからである。

 チミノが作品で一貫して最も表現したいことは、美しい映像でも麗しい音楽でもない。厳粛たる儀式や荘重たる移民ではない。それらは二次的なものである。

 チミノは人間を最も描きたかった。

 保安官と賞金稼ぎの間の現在は相容れることが不可能な過去からの「友情」。そして二人の男から一人の娼婦への「愛情」。

 チミノが刻印とする「友情」の掘り下げ方が凄まじい。凡庸な関係性ではなく、「友情」とは何かを究極までに追求している。だから、保安官と賞金稼ぎの「友情」は活きている。脈打っている。生命の萌芽がある。

 チミノは語る。
「映画に物語は必要ない」

「物語」を牽引するのは人物であろう。一見、矛盾しているかに捉えられる。

 いや、そうではない。

 チミノはあくまでもキャラクター(人間)を描く。
 何故ならば、チミノは「物語」ではなく「人間」こそを「映画」という彼を魅了する媒体でスクリーンに映し出したいのだ。ただ、その為だけにチミノには「物語」が必然的に必要となるのである。

 何故なら、映画はビジネスである。そこには「物語」が「撮影された演劇」がー現在ーは求められる。

 それに逆行し挑戦したチミノは、「天国の門」が興行的に破滅し製作したユナイト映画は倒産することに当然の帰結としてなる。


 この作品はただ背景として時代と舞台が19世紀末でありジョンソン郡戦争としているに過ぎない。
 同じく、「ディア・ハンター」も背景として20世紀後半のヴェトナム戦争が存在しているに過ぎない。

2)マイケル・チミノの白眉は、シーン毎の更にはシークエンス毎の「雰囲気の醸成」である。つまり、その場の空気が尋常ではなく現実を超越するのである。
 それは映画に生命をもたらす。
 よって、「雰囲気の醸成」とは生命を生み出すことである。

 具体的には、ネート・チャンピオン(クリストファー・ウォーケン)の家に招かれたエラ・ワトソン(イザベル・ユペール)が家に入った、その瞬間にガラリと「雰囲気」が変化する。
 直前の屋外のシークエンスと比べると一目瞭然である。
 ネートの家の中の「雰囲気」を是非ともご覧いただきたいと願う。
 チミノの真骨頂である「醸成」を目の当たりにするであろう。

3)チミノは、シークエンスとシークエンスの繋がりに重きを置いていないのは明白である。これはストーリーテリング(ストーリーの語り方)としては稀有な方法に入るといえる。
 一つ一つのシークエンスの創り込みは群を抜いており、チミノの真骨頂たる丹念な自らの刻印の彫り込みが強烈に為されている。
 
 チミノが描いているのは、人間の日常である。そこには繋がりがないといってもいいだろう。各人の一日をとってみても(シークエンスごとに)外面の分離しているはずである。しかし、そこには人間の心情の内面のリズムの波が継続する。

 チミノが描いていることは、まさにそれではないか。
 登場人物の内面の心情のリズム、それこそをチミノは捉えつづける。

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