「夏は夜」、タコツボの夢のこと
夜、タコを採るために沈めた壺。その壺に入ったタコは朝に引き上げられるとは知らずに夢を見ている。なんともユーモラスで切ない、芭蕉の攻めた一句だ。ちなみに近年の研究で、タコも睡眠中に夢を見るかもしれないといわれているそうだ。
「儚さ」を連想させるツールに「夏の夜」を選んでいるのは、芭蕉独特の感性というわけではない。古くは平安時代より、多くの歌人が夏の夜の短さを「夢よりも儚きもの」として歌に詠んでいる。
現代における夏の夜はどうだろう。連日とくべつな催しがなされ、都会も田舎も不夜城の様相を呈している。花火、祭、盆踊り、肝試し、ビアガーデン、ナイトプール。朝と夜の境目は消され、夜も朝のように動き、朝は夜のように眠たげに目をこする。そんな日々だ。
夕暮れの家路は一日が終わっていくようで感傷的になるものだが、夏に関しては例外の日が増える。あとに予定を控えていれば、「ここからは夜の世界が始まる」という浮き立つ思いが先行する。
壺のなかでまどろみながら夢を見ているような静かな夜は、今では遠い幻となって創作の中にだけ佇んでいるようだ。楽しみの多い現代の夜に、ひっそりと空に浮かぶ月に意識を向けるのは難しいことかもしれない。
そんな明るく賑やかな夏だからこそ、時々は夜の持つ「静」に目を向けようと思う。