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冬桜と異世界のこと【静岡県島田市、天徳寺】
島田市大津の天徳寺を訪れた際、期せずして満開の冬桜を見ることができた。
バイパスから北に抜けて、水量の減った大津谷川沿いを進む。城山のふもとにある土窯から炭焼きの白い煙が上がっている。休耕田、立ち枯れのすすきと葦、ナンテンの実、そんな風景を通り過ぎて、さらに奥まったところに天徳寺がある。
天徳寺はサザンカのトンネル参道と、県指定文化財の山門で有名な山寺。サザンカは見頃を過ぎてしまっていたようだが、樹間の奥に一本の冬桜が白く光っていた。
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「山の日は鏡のごとし寒桜」(高浜虚子)。小さな白い花々に爛漫の感はなく、ひたすらに静かな佇まい。冬空の白い日にまじって咲く姿は白梅に似ているが、そこに春意を告げる芳香はない。枯野や灰茶色の山のなかでじっと沈黙して、幽玄の趣を放っていた。
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「山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば」源宗于(みなもとのむねゆき)
寂しいと思いながら、山里を求めてしまうのはなぜか。きっとそれは、冬の山里が孤独感と引き換えに自由を得られる、一種の異世界のような場所だからだと思う。
年が暮れる。1年でもっとも日が短い時期。同時に少しずつだが日脚が伸びている気もする。たくさんの課題を残して、何かに焦っているような気持ちのまま、また年を越していく。
今週のおすすめ本
『陰翳礼讃』谷崎潤一郎
日本の衣食住、あらゆる文化が陰影を駆使した美で構成されており、なぜそれが美しいかをひたすら考察した随筆。日本人がなぜ暗がりに美を見出したのか、西洋との比較がおもしろかった。
「美」という目的に沿って作るなら、薄暗くて見えにくい不便や、虫の音のわずらわしさも美を構成する要素としてプラスにひっくり返る。
冬枯れの世界に咲く桜も、殺風景な場所で寂しげに佇んでいること、淡い白色で小さな花をつけていることが、美においてはむしろ必要な要素となってくる。美というゴールにつながるなら、寂しさも忌むべき感覚でなくなる、という感じだろうか。
それは乱暴にいうと、「美しければ何でもいい」というスタンス。失敗や悲劇も、どんな人も出来事も「笑い」という目的に沿って再構築してしまう、お笑いが感覚として近いものだと思った。
陰翳礼讃はきっと谷崎自身の美学でもある。彼が紡ぐ物語や文章は、総じて美をまとっているからだ。