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金子みすゞの詩に見える「優しさ」と「悲しみ」のこと
降ったり止んだり、どんより灰色な静岡の空。霧雨に包まれながら藤枝市郷土博物館・文学館で開催中の「金子みすゞ生誕120年、作品発表100年記念の特別展」を見にいった。
金子みすゞに関する貴重な資料の数々、遺稿手帳、直筆の詩などを見る。特別に上手い字というわけではないが、まるっとしていて丁寧に書かれている。消しゴムで消したような、何度も推敲した形跡が見える。素朴で暖かみのある詩によく合っている字だと思った。
金子みすゞの生涯をざっと追う。彼女が生きた大正後期は、何かと息苦しいことも多かったようだ。そんな時代のしがらみを振り切ろうとするかのように、詩人の魂は想像力の翼を力強く羽ばたかせている。小さな手帳のなかに、花びらに隠れる虫から広大な宇宙まで、果てしない世界が広がっていた。
「雲」
私は雲に
なりたいな。
ふわりふわりと
青空の
果てから果を
みんなみて、
夜はお月さんと
鬼ごつこ。
それも飽きたら
雨になり
雷さんを
供につれ、
おうちの池へ
とびおりる。
金子みすゞの詩の魅力は、瞬間的な視点の憑依にあると思う。自然、虫、動物、物の擬人化というよりも、自身が対象そのものになりきって、すべてに愛情を振りまいていく。人の視点で見ていたかと思えば、魚の気持ちになり、鳥の気持ちになり、月や星の気持ちになる。ありとあらゆるものを慈しみ、愛情で包み込もうとしているところに、本質的な「愛」の輝きがある。
「草原の夜」
ひるまは牛がそこにいて、
青草たべていたところ。
夜ふけて、
月のひかりがあるいてる。
月のひかりのさわるとき、
草はすっすとまた伸びる。
あしたも御馳走してやろと。
ひるま子供がそこにいて、
お花をつんでいたところ。
夜ふけて、
天使がひとりあるいてる。
天使の足のふむところ、
かわりの花がまたひらく、
あしたも子供に見せようと。
同時にまた、詩人は人一倍、多くの悲しみを見ていたのではないだろうか。自身が置かれていた境遇、環境、時代のしがらみ、そして何より彼女自身が持っていた豊かな想像力。ときに見たくないものまで見えてしまうことも、味わうこともあっただろう。彼女の作品が底抜けに優しいのは、それだけ多くの悲しみを見てきたということでもある気がする。
呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
金子みすゞとほぼ同時代を生きていたフランスの作家サン=テグジュペリ。彼もまた『星の王子さま』の中で、「大切なものは目にみえない」と書いていたことは興味深い。
愛情とか思いやりとか慈しみとか、形はないけどたしかにあるもの。悲しみも同じく、見えないからこそ、際立って見えるもの。それは料理の隠し味のように、あたたかな彼女の詩の世界に寂しげな余韻を残している。