自分のためにつかう時間とお金
今日は自分のためだけに過ごした一日になった。
朝ゆっくり起きてから、そのとき思いついた食べたいものをつくり食べ、なんとなく近所でいったことのなかった神社に行ってみた。帰りは二駅分、川沿いを歩き、イヤホンもつけず川の音と虫の声、たまにギターを弾いている人の方へ耳を傾け、何も考えず歩いた。
そのあと最近見つけた古着屋さんに足を運び、一着気に入った服を買った。
家についてからずっと観たかった映画を一本観た。
今日はこうしてやっと自分の感覚を戻していく作業ができた。
これは休日の使い方としてよくある一日かもしれない。しかし、今までのわたしの休日は、ただただ家でゴロゴロ過ごす一日だったので、このようなアクティブな時間の使い方は自分にとって初めての試みであった。
服を買うのも、今まであまり積極的ではなかった。この服は仕事で着ていけないとか、無難な服でないと周りの目が気になるとか、そういうことを考えて選んでいたが、今年の夏は初めて自分のためだけに短パンを買ってみた。今日も秋にしかきれないような、年中の融通が利かないような服を選んだ。
今、その瞬間にわたしがしたいこと、欲しいもの、気に入ったものを選んでいくという作業は、実は今までわたしにとって贅沢でもったいない時間やお金の使い方だった。しかし、それは今まで誰のために我慢してきたことなのか、何に遠慮してやってきたことなのかわからない。わたしの勝手な先入観でセーブしてきた問題だった。
自分の本能、直観に従って生活するということは、生きていく上で必要な〝練習〟なのかもしれないと最近になって感じる。我慢することや遠慮することは人間にとって、日本人にとって無意識にある美意識なのかもしれない。しかし、そのストッパーを外したとき、本当の自分に向き合えるとおもう。
ストッパーを外すことで、今までより傷つきやすい人間になるかもしれない、周りを気にして結局自分へのベクトルを向けられないかもしれない。
しかし、傷ついてでも自分はこうだと胸がはれる、本当の自分はこうなのだ、と思えるようになるためには、自分のために使う時間やお金も必要なのだと思う。
家族を持ったり、責任を担うとなかなかできないかもしれないが、こういう贅沢な時間や買い物も、たまには良いなと感じた一日だった。