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沖縄復帰50年に思うこと ②

沖縄と戦争


私はまだ沖縄の歴史も日本の歴史もそんなに知らなくて、自分で感じた範囲の理解でしかないのだけれど。沖縄の人は戦争が始まった時、日本語もあまり喋れないような状態で、強制的に母国語を捨てて日本語を喋らされていたそうです。たまに近所のおじいが話す、うちなー言葉は私が知ってる日本語とは全然違って、全然違う言語を喋っていたんだと驚かされます。そんな中、日本の戦争に巻き込まれ、日本の一部として戦争に参加させられている。近所のお爺はお酒が入ると戦争の時のことを教えてくれます。「やまとんちゅうは、うちなんちゅうのことを鉄砲玉の盾にしか思ってなかった!!!」声を荒げて嘆いてくれることもあります。そんな時、私は自分が内地の人だということに胸が痛くなります。民族で人間個人を括ることはできないし、国で括ることもできないけれど、そんな思いをしている人がいることは紛れもない事実で。戦争はそういう意味で沖縄の人を二重に苦しめました。どうしようもなく苦しい戦争の果てに、沖縄はアメリカの支配下に置かれ、ドルしか使えない時期もあったそうです。その度に沖縄の人は翻弄され…。その後、沖縄は日本に返還されることになり、沖縄が日本だという理由で敗戦国が受け取る代償を背負わされている・・・・・・。
さらっと流れを聞いただけでも、なんだか理不尽すぎるのです。

琉球新報より


戦争だけでなく開発で破壊される沖縄

それだけでなく、沖縄にはさまざまな特別政策をいいことに内地の企業が入り、開発をして、利益を貪って吸い尽くしています。リゾートキャンペーンでイメージアップされた沖縄の土地を、内地の企業が買いあさり、新しい持ち主に売り、新しい持ち主もそれを転売し、個人の利益を増やすために、エゴからの行為によって、土地と文化は切り離されていきます。その土地を守って生きる人達がだんだんと少なくなっていく。そうすると転売に拍車がかかります。その土地の歴史を知る人が減っていく。これはとても大変なことです。これだけ外の人たちに翻弄されている土地ってあるだろうか?そんなことが許されていいのだろうか?沖縄で起こっていることを知っていくたびに、気づくたびに、ただただ疑問しか湧かないのです。

どこをみても重機が並んでいて、どこをみても開発している。こんなに開発を続けている土地はないと思います。たくさんのお金が、補助金が流れているのが見えてきます。一企業の開発だけではなく、政府や超大企業が絡んでいることだから、個人の活動で気楽に止められるようなものではないというのもビリビリ感じるのです。そんなところが私の沖縄への第一印象だったので、沖縄という土地に暮らし、土地と向き合うのはとてもとてもハードルが高く思えました。

ひとりひとりに力がある。

そんな私たち家族が移住を決断したのは1人の沖縄人に出会ったから、ただそれだけでした。沖縄を愛し、沖縄のために生きている、ユニークであることに心からリラックスしている。その人に出会った時にただただ「沖縄の魂って尊いな」と思ったのです。それは沖縄にいきづく縄文文化、人々が助け合い、寄り合い、与え合う、そして多様であることを認め合う、ピラミッド社会とは全く違う世界観。この土地に育まれた個性、個人の魂はやっぱり美しく、自由であるという、それを知ったからでした。そしてこんな人がいるこの土地で、何かできることがあるかもしれない、と希望が見えたからなのでした。そして沖縄から、ヤマトにはなくなってしまった大切な感覚を学ばせてもらいたいと思ったからなのでした。

沖縄の人は戦後、ずっと考えています。多分日本のどこの人よりもずっとずっと。平和について戦争について、真剣に向き合って考えさせられています。生きているだけで、たくさん感じることがあるこの土地で。その中で、優しく強く戦い続けています。きっと何度も無力感や、諦めを感じながら、それでもずっとずっと優しく戦っています。暮らしているだけで自分との戦いです。この問題はこのまま、沖縄の人たちが抱え続けていくしかないのでしょうか?

一番の問題は、「この問題は沖縄だけの問題ではないのに、沖縄の問題になっちゃってること」だと思うのです。本当は私たちみんなが、知っておくべきことなんだと思うのです。

「私はまだまだ何にも知らなくて、ここで生まれ育ったわけでもなくて、だから何もいう権利はない。」ここにきてから半年間、ヤマトからきた存在であることの無力感みたいなものを感じていました。やまとんちゅうであることの罪悪感まで感じることもありました。何をやっても沖縄の大切なものを傷つけたり損なったりしてしまうんじゃないかと慎重になりすぎて、何もできなくなっていました。
沖縄についてたくさん思ったことがあったけれど、黙っていなきゃいけないと思っていました。事態は何重にも綿密に対立構造が作られていて、何を言っても誰かを傷つけることになる。その土地のものでない人間が、その土地の誰かを傷つけることになるかもしれないような発言をしてはいけないと、すごく慎重になっていました。

実は私は子どもの頃から転勤族で、あまり土地と繋がっていきたことがなく、自分がどこの人間かと言われると答えられないところがあります。だから世界中の民族の土地を渡り歩き、シャーマンとか舞踊家とかと出会い、そんなところにで土着の人とごちゃごちゃ一緒に暮らしているときにホッと生きた心地がする。そんなふうに生きてきました。日本人だということにも自信がない。だけれど、やっぱり思ったことは伝えたい。今の安定を守るよりも、傷を抉ることになっても、現実を変えたいという思いは隠せない。宙ぶらりんの私だからこそ、沖縄に来て感じた違和感を、誰ともなく届けられるんじゃないかなと思い、この文章を書くことを決めました。

終わりに

私は悲しいです。復帰50年と聞いても特に心が動かない自分が。
日本という国に疑問や違和感しか感じられない自分の心が。

だからなんなんだろう?
沖縄に未だかつて何か返されたものがあったのだろうか?
言葉、歴史書、信仰、土地・・・。
何か一つでも返されたのだろうか?

歴史や文化を持った土地が、
「日本のもの」「米国のもの」「誰かの所有物」になり得るという世界に生きている自分が悲しいです。

ただ沖縄には沖縄であって欲しいと思います。
沖縄で生まれて、沖縄で育つ人が、安心して暮らせる土地であって欲しいと思います。その願いを、沖縄の人だけでなく、みんなの願いにしたいと思います。

あたりまえの事を、沖縄という土地が受け取れる日が来るように、
1人でも多くの人に沖縄の米軍基地のことを肌感覚で知ってもらいたいと思い、この記事を書きました。

まだまだ歴史に関する知識もなく、勉強中です。この文章でひょっとしたら誰かを傷つけることになるかもしれません。地名や土地勘などなく、間違えているところもあるかもしれません。ごめんなさい。感じたことが伝わればいいと思い、勇気を出して書きましたのでご理解ください。これが私が沖縄に来て沖縄返還50年と聞いて感じたことです。長文、読んでいただきありがとうございました。



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