偶然の積み重ね
明治維新の立役者といえば、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允が真っ先に思い浮かびますが、徳川慶喜も欠かすことができません。
徳川家が、本気で戦争をする気であったなら、もっと明治政府への移行に時間がかかったでしょうし、泥沼の内戦が続いたかもしれません。
鳥羽伏見の戦いまでは、ころころと方針変換をしていた徳川慶喜が、それ以降戦わないと決めてからは、その方針は変わることはありませんでした。
幕府の中では、小栗忠順は強硬に薩長と戦うことを主張したと言いますが、耳を傾けることなく、勝海舟に後を託しました。
この決断に賛否あるかと思いますが、この決断は15代将軍になっている徳川慶喜だからできたことで、そこに歴史の大きな偶然を感じます。
徳川家康は、徳川家の天下が永遠に続く仕組みを考えていたように思います。
その一つに、直系が途絶えたときの対策として、御三家を作りました。
しかし、徳川家康の慎重さは、水戸家には、「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされるところにあるように思います。
御三家と言われるものの、尾張家や紀州家が実質の血のスペアとしての価値を残し、水戸家は朝廷に付くことで万一に備えていたというのは、家康の考えそうなことのような気がします。
徳川慶喜はそのような家の雰囲気の中で育ったということが、彼の決断に大きな影響を与えたように思います。
しかし、水戸家出身の慶喜は普通であれば、将軍になることができません。
そこにも偶然がいろいろ重なります。
御三家の仕組みが機能したのが、徳川吉宗の時です。
彼は、紀州徳川家から宗家を継ぐことになり、8代将軍になりました。
そこで、彼も自分の血筋から将軍を出すように仕組みとして、御三卿というものを作ります。
清水家、田安家、一橋家です。
そして、この一橋家に慶喜が養子でいっていたため、15代将軍となることができました。
徳川家康もまさか、水戸家出身の人間が将軍になることを想定していなかったでしょうし、徳川吉宗も自分が作った仕組みで将軍家が終わるとも思っていなかったことでしょう。
徳川慶喜も平常時であれば、また違う将軍像になっていたでしょうし、でも、その時代に徳川慶喜が将軍に就いていることが、歴史の積み重なった偶然の中の必然だったのかもしれません。
私たちが今、生きているのも、いろんな人との出会いも、いろんな偶然の積み重ねがあって、実は、自分がコントロールできるところなんて、ほんの少ししかないのかもしれません。
織田信長ほど優秀な人でも、自分の家臣をコントロールできずに命を失いました。
豊臣秀吉ほど優秀な人でも、自分の死後の不安から逃れることができずに、結局豊臣家も滅びました。
受験勉強でも就職活動でも、どんなに頑張っても自分の希望するところに行けない時もあります。
でも、希望と違うところに行って、尊敬できる上司と出会えたということもあります。
全てを自分の思い通りにすることや、結果のコントロールはできないように思います。
だからこそ、結果にはこだわらず、今できることを一生懸命行動するプロセスこそが、輝きを放つような気がします。
起業家として結果が出ないときに焦るときがあるかもしれません。
そんなときこそ、一生懸命行動するプロセスの大切さを意識して欲しいと思います。