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なぜ人は異文化を学ぶのか?/書籍「はじめての人類学」

今回は、ザンビアで出会った人類学の魅力をお伝えするべく、人類学の歴史と、人類学者が追い求めてきたもの、そして人類学がどうやって我々の人生に彩りを与えてくれるか?

ということを、書籍紹介を通して書いていきたい。



人類学に出会った理由

前回の記事で少し触れたが、ザンビアでの生活には、この国の文化や人々の意識との衝突、困惑、怒りが必ずついて回る。

そしてその困惑の正体を理解しようとすると、ザンビア社会、文化、歴史など、ザンビアの人々の思考回路を知る必要がある。

昨年からこの分野に興味を持って調べ始めると、我々がいう「途上国」の文化や歴史は、「先進国」側の人類学者たちによって綴られたものが多いことに気づいた。

なぜ人は異文化を学ぶのか?

人類学が生まれた時代

人類学は、「外部」を探求する学問である。
アマゾンの森の中や、アフリカの荒野などの民族的生活の中に入り込み、数ヶ月、長い場合は2年ほども生活を共にして、彼らの文化や行動様式を民族誌として描き出していく。

自分自身の文化は空気のようなもので、外部と接触してその違いに困惑しないことには、それを言語化しようとは思わないらしい。

人類学者たちは、まさに人生をかけて、当時「未開」や「野蛮」と思われていた社会集団に文字通り飛び込んで、現地の人たちの生活様式を一つ一つ自分たちの言葉で紡ぎ出していった

そんな、ある種の「狂気」すら感じる人類学が生まれたのは、16-19世紀ごろのヨーロッパだ。
15世紀末の大航海時代により、ヨーロッパ人は初めてアメリカ大陸やアフリカ大陸の、自分たちの理解を超えた「外部」と出会うこととなった。

加えてその時代は、ホッブズの社会契約説をはじめ、モンテスキュー、ルソーなど多くの思想家が登場し、ヨーロッパで「自分たちの社会の成り立ち」への関心が飛躍的に高まった時期でもあった。

そんな外部への驚きと内部への関心の高まりから生まれた人類学に期待されたことは、「なぜ自分たちヨーロッパ人と、「未開人」たちはこんなにも違うのか」という疑問を説明することだった。

そして当時の人類学は、世界の様々な文化に対して進化論的な考え方をとった。

つまり自分たちが「外部」で出会った「未開人」たちが持つ文化は進化の過程で、それが進化(文明化)した状態こそが自分たちの文化なのだ、とする考え方である。

当時の人類学者たちは、探検家や宣教師が書いた「外部」の資料を研究室で読み耽り、パッチワークのように組み合わせて、進化論的な人類学を説明するための研究に没頭していた。

そこにNoを突きつけ、人々の生活に飛び込まなければ文化などわかるはずがない、と唱え、驚くべき行動力で人類学の基礎を築いたのが、本書で紹介される4人目の人類学者の一人、マリノフスキである。

フィールドワークと参与観察

1884年、ポーランドに生まれたマリノフスキが、ニューギニアでの長期間のフィールドワークで創り上げた手法が、参与観察である。

参与観察とは、現地の人々の労働、儀式、生活のための作業に実際に参加することを通じて、外部から社会集団を見ただけでは捉えきれない文化の細部を捉える手法である。

現地住民に関する研究で、ほんとうに私の関心をひくものは、彼らの事物にたいする見方、世界観、住民たちが呼吸してそれによって生きていく生活と現実の息吹きである。

本書の「B・マリノフスキー『マリノフスキー日記』」紹介文より

彼はこの手法を駆使し、対象とする社会が持つシステムとしての「骨組み」だけでなく、目の前の人が見せる生々しい行動、態度などの「血肉」を組み合わせることが重要と説く。

私自身も、「おおらかなで争いを好まない」とされるザンビア人に囲まれて生活していても、意外と農村部で出会う農家たちがお互いを信用していなかったり、仲良さそうに見える同僚たちの間に奇妙な距離感があったり、
「ザンビア人って見た目ほどフレンドリーじゃないのか?」と感じることがある。

そういった、一筋縄ではいかない人間の生々しさに着目したマリノフスキが描き出した「生の全体」は、20世紀の人類学に大きな影響を与え、また彼が生み出した参与観察の手法は、今でも大半の人類学者たちに受け継がれている。


加えて彼の魅力は、(本人には気の毒だが)フィールドワーク中の私的な日記が後世に出版されており、そこに異文化で生活する人間臭い感情がありありと描き出されていることである。

昨晩も今朝も、舟を漕いでくれる人を探したが見つからなかった。そのため、白人としての怒りと、ブロンズ色の肌をした現地人に対する嫌悪が高じ、憂鬱もあいまって、「その場に坐りこんで泣き出したい」衝動に駆られ、「こんなことから逃げ出したい」と切望した。

本書の「B・マリノフスキー『マリノフスキー日記』」紹介文より

現地人たちにはいまだに腹が立つ。とくにジンジャー(筆者注:現地人の名)に対しては、もし許されるのなら死ぬほど殴りつけてやりたいくらいだ。

本書の「B・マリノフスキー『マリノフスキー日記』」紹介文より

殴りつけたいと思ったことこそないが、ザンビア文化の中での心の葛藤を原動力に人類学を学び始めた私としては、マリノフスキに時代を超えた強い共感を覚えた。

また、こんなに偉大な人類学者でも、21世紀の駐在員が感じるような心の葛藤を感じるのだと思うと、安心し、嬉しくもあった。

注:これはあくまで彼の私的な日記であり、彼の研究者としての態度は現地の人たちへのリスペクトに満ちていた。誰でも真剣に現地と向き合う中で、こういった怒りや困惑が生じるのは当たり前のことだろう。

生の〇〇

本書ではマリノフスキを始め4名の人類学者が紹介され、大航海時代をきっかけに生まれた人類学が辿ってきた進化の過程をダイジェスト的に学ぶことができる。

「生の全体」を描き出したマリノフスキを始め、

異なる社会同士でも、その根底にある交換行為、婚姻やそのタブーといった、人間社会の共通項としての「生の構造」があることを発見したレヴィ=ストロース、

人種のるつぼを内側に抱えたアメリカで、それぞれの文化に価値がありリスペクトに値するとする「文化相対主義」の原型を生み出したボアズの「生のあり方」、

人生と文化を流動的なものと捉え、(異文化の)人々に「ついて」学ぶのではなく、人々と「ともに」学ぶことを重視したインゴルドによる「生の流転」

といった、パラダイムシフトを起こした4人の人類学者の研究が詳細に、分かりやすく紹介されている。

比較することによってしか、自分は知れない

本書をはじめとする人類学の書籍を読みながら私が感じたことは、人間は自分と他者(外部)について、比較することでしか理解することができないのではないか、ということである。

本書で紹介されている4人の人類学者たちが展開する学説も、自分たちの育った文化と、未知の外部社会との比較が根底にあるように思われた。

自分とは何者だろう?
なぜ「外部」の人はこんな行動をするんだろう?
なぜこんなにも違うんだろう?

といった、単純な好奇心というよりも、理解できないと不安で仕方がない、自分を取り巻くこの状況を理解したい、説明したいという切迫な感情によって、人は異文化を学び、それによって他者を学び、また自分を知るのだろう。

16-19世紀のヨーロッパで、理解を超える「未開文化」とヨーロッパ社会との違いの説明が求められたように。

その後20世紀のヨーロッパで、世界恐慌や第一次世界大戦を通じてヨーロッパ文化が自信を失い、自分たちの文化のあり方の探究がもう一度求められたように。

世界は画一化に向かう。しかし驚きは常に満ちている。

現在の社会は、どんどん小さくなっている。
ザンビアでもスマホや携帯電話が全国的に普及しているし、ある国の大統領選挙が、地球の反対側に即座に影響を与えたりする。

伝統的に人類学がターゲットとしていた「未開社会」の数は、どんどん減少しているように感じる。

しかし、それでも理解の及ばない「外部」(異文化)は、確かに存在する。

ザンビアに10年近く住んでいる専門家や先輩駐在員も、何気ない日常の中で常にザンビア人の挙動、文化の違いに驚かされている。

ランチタイムに同僚と話す「ザンビア人って〇〇だよねぇ」というネタは、今後も常に更新され、尽きることがないだろう。

実際に人類学そのもののターゲットも、遠く離れた外国の「未開の地」だけでなく、より身近な自文化や少数グループ、都市社会や文化現象などが頻繁に取り上げられるようになっているそうだ。

人類学は常に「外部」を求め、暗闇に踏み出す恐怖を乗り越え、異文化理解の葛藤を抱えながら変化してきた

人類学の出発点である「外部への驚き」と「自己への関心」を感じる心さえあれば、異文化の理解を深め、その比較によって自己理解を進めることができる。

そして、自分が発見した異文化の価値観を心の中にストックしておくことは、きっとその人の懐を深くし、人生で直面する困難を生き抜くヒントを与えてくれるだろう。

最後に、異文化理解へのマリノフスキの言葉を紹介して終わりたい。

他人の根本的なものの見方を、尊敬と真の理解を示しながらわれわれのものとし、未開人に対してもそのような態度を失わなければ、きっとわれわれ自身のものの見方は広くなる

本書の「B・マリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者 メラネシアのニュー・ギニア諸島における、住民たちの事業と冒険の報告』」紹介文より


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