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ハーマンズ・ハーミッツを語ろうよ 第4回【シルエット(Silhouettes)】


実はイギリス盤のA面B面を逆さにしている。いずれにしても豪華なカップリング

 ピーター・ヌーン曰く、ハーマンズ・ハーミッツがシングルの曲目を選ぶ時、主体となって動いたのはミッキー・モストと自分だったという。そしてそのセンスは結構、良かったとも。この人は見た目によらず強烈なパーソナリティを持った人物であるが、別に自画自賛ではない。うぬぼれでなく、実際に良い選曲をしていたのである。

 一般に、ブリティッシュ・インヴェイジョン期のイギリスのバンドでカバー曲のチョイスとアレンジに定評があったのはサーチャーズだったというけれど、ハーマンズ・ハーミッツのそれだって結構いい。そのセンスの良さが集約されたのがこの『シルエット』だ。1965年の2月、『ハートがドキドキ』の大ヒットの最中にたたみかけるようにリリースされたこの曲はアメリカで5位、イギリスで3位を記録する。ブリティッシュ・インヴェイジョンの一連のグループの中で、シングルが全米トップ5に連続でランクインされる快挙はビートルズ以来だった。


カール・グリーンのレフティー・ベース!(口パク)

 この曲を知ったのは米軍放送のラジオだったとピーター・ヌーンは言う。オリジナルは黒人ドゥー・ワップグループのザ・レイズが1957年にヒットさせたもの。ただ、ドゥー・ワップは1965年当時は好んでカバーする対象とはならない、やや忘れられた音楽ジャンルだった。

「他のバンドがやらない曲を探していた」と、ピーター・ヌーンは回想する。この言葉は単に、まだ発掘されていない過去の曲や、人気ライターからの書き下ろしを依頼するというだけの話ではない。

「1963年にサーストンでビートルズを観たとき、ポール・マッカートニーがベースを弾きながら『Till there was you』を唄うと、当時のハーマン・アンド・ハーミッツのメンバーだったアラン・リグレーが叫んだよ。”F○cking Bustard!”ってね」

 要はトップグループのベースが、弾きながら唄えるという事実にアランは絶望したのだ。彼我の実力差ではショウ・ビジネスでの成功なんて望めないと。そして・・・・・・1963年のビートルズは屈指のライブバンドであった。

「アランはバンドを辞めた」とピーターは続ける。「ビートルズ以外にもThe UndertakersやScreaming Lord Sutchなんかもいた。僕らが『Roll over Beethoven』をやっても人気が出るとは思わなかった。・・・・・・僕らは誰もやっていない(やろうとはしない)ロマンチックなラブソングやバラードをやろうと思ったね」

 1963年当時、まだ16歳になるかならないかのピーター・ヌーンは自らの力量を客観視していた。そして1965年、彼の選択は間違っていないことが証明される。アイドルとしていかに振舞うのが正解かを理解しているアイドル程、強い存在はないのだ。

【シルエット(Silhouettes)】
 イントロのギター・ソロが名演。本来スローバラードの曲なんだけど、このギターのおかげでロックとしての緊張感を維持出来ている。『朝からゴキゲン』『ショウ・ミー・ガール』『ハートがドキドキ』といわばアゲアゲの世界観で攻めてきた彼らとすれば、やや落ち着いた歌詞。
 が、失恋ソングのようにみえて実はそうでもない。失恋ソングとして聴いていると間奏で転調してからのオチにやられる。
 ピーターとミッキーが偉いのは、こんな歌詞の歌をチョイスしたことに尽きる。同じようなシチュエーションの歌なら1965年当時はビートルズの『No reply』があり、ジョン・レノンは『俺は死にたかったよ』と叫ぶ。が、上昇し続けるピーターはそういった内省的な感覚を必要としなかった。全てはハッピーでなければいけない。

【ウォーキン・ウィズ・マイ・エンジェル(Walkin' With My Angel)】
 初期のハーマンズ・ハーミッツは意外なくらいゴフィン&キングを取り上げる。これはボビー・ヴィーのカバーだけど、ハーマンズ・ハーミッツに書き下ろされたのではないかというくらいに明るい楽曲。カフェオレにスティック・シュガーを3本だ。

・・・・・・1月リリースの『ハートがドキドキ』、そして2月の『シルエット』。ハーマンズ・ハーミッツは短いスパンで立て続けにアメリカでの大ヒットを出した。気をよくしたアメリカでの配給元であるMGMはとにかくハーマンズ・ハーミッツの曲を売出していくことになる。出せば売れる、彼らはゾーンに入っていた。

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