角田光代さんの『森に眠る魚』を読んで、かつての私を思い出した
『ママ友って、頼りになって有難い存在』
『でも、ママ友って難しい』
子育て経験のある方なら、誰でも感じたことがあるのでは?
子供を通してつながるママ友との関係
自分自身の友達とは違った基準での交友関係
自分の友達なら
自分と気が合う、好みが似ている、一緒にいて楽しい
自分だけの基準で選べるのに
ママ友はそれだけではいかない。
自分の子供のお友達のお母さんだから、友達になる。
本当はお互いに距離を置いてもいいはずなのに・・・
ある時は、子供同士以上に
ママ友同士との関係が密接になることもあるのだ。
この小説は、東京の文教地区のある町で出会った五人の母親の話である。
五人はそれぞれ、生まれも育ちも生活環境も異なっている。
かおり、容子、千花、瞳
そして繭子
もともと東京出身の人、地方出身で大学生で上京した人、東京暮らしに憧れていた人・・・
もしかしたら、子供の母親
という共通の要素がなければ
一生交わらなかったような
女性たちかもしれない。
彼女たちの子供たちは
小学生から乳児までの同年代だ。
その中で容子と瞳と千花の三人の息子たちは、同じ幼稚園に通っている同級生。
当初、母親たちの関係は
考え方や価値観の多少のズレはあっても良好だった。
第一子の初めての育児でお互いに不安だった母親たちは、
やっと心を許せるママ友ができたことに安堵していたのだ。
子供を連れて一緒に公園やファミレスに行ったり、
時には自分の家に招いたり、招かれたり。
しかし、少しのズレが積み重なって、それはやがてどんどん大きくなっていく・・・
彼女たちの心のズレが決定的に大きくなった原因は、同級生だった三人の息子たちの
小学校受験をそれぞれの母親が意識し出してからだった。
ところが、お受験に否定的な容子は、瞳や千花たちも自分と同じ意見だろうと勝手に思い込んでしまう。
一方で、幼稚園児の息子の小学受験を視野に入れた千花は
ママ友の容子や瞳にお受験のことを隠して、習い事や塾に息子を通わせ始める。
千花の心の変化は、小学受験を経験して、娘を名門私立の学校に進学させ
ハイソで理想的な生活をしている、かおりの影響が大きかった。
千花の息子のお受験を知った瞳も、自分の息子を塾に通わせ始めることで
受験を否定していた容子はますます孤立していく。
焦り、苛立つ容子は、追い討ちをかけられたように、第二子を流産してしまう。
すでに、瞳と千花は第二子の女の子を産んでいて
かおりと繭子の子供も女の子だった。
容子も次の子は女の子を切望していたのに・・・
『元のようにみんなと仲良くしたいのに、いつから気持ちがすれ違ってしまったのだろう?』
『正直に自分の気持ちを伝えたいだけなのに、どうして私は辛辣な言葉しか発せられないのだろう?』
流産したことを彼女達にも言えず、思い詰めた容子は、鬱状態に陥り、
大人しい我が子に尽く、辛く当たってしまう。
一方で、塾通いで疲弊している千花と瞳の幼い息子たちも小さな心を痛めていた。
ここで、私がふと感じたことは、彼女たちにとって何よりも大切な子供たちの気持ちが全く無視されているということだ。
そもそも、誰のための受験なのか?
誰のための進路なのか?
『子供のためは、自分のためではなかったのか』と私は以前、記事に書いたことがあります。
千花の息子は、塾から太鼓判を押されたにも関わらず、受験当日は全く試験を受けようとせずに、二校とも受験放棄してしまう。
それは、千花の息子が、小さな体でできる精一杯の抵抗だった。
それを知った千花は、生まれて初めて息子の雄太を叩いてしまう。
比較的、経済的には恵まれていた千花だったが、千花の妹が、独身で世界を飛び回り、自分の夢を叶えていることに劣等感を持っていた。
そしてその劣等感を払拭するために、千花は息子のお受験に必死になっていた。
瞳の息子の光太郎は、第一志望ではないが、私立の小学校に合格する。
本当なら嬉しいはずなのになぜか瞳の心は晴れない。
瞳の心のどこかでは
新しい小学校で、新しい母親たちとの交流に不安を感じたり
私立に進ませる事の経済的な負担も頭をよぎる。
そして瞳は中学・高校時代に患っていた過食が再び始まっていた。
セレブのようなかおりの娘は、入学した名門私立の学校に、ある時から行けなくなっていた。(不登校だった)
そして今は心療内科に通っている。
実は、かおりは、かつての上司と不倫をしていたのだ。
背伸びをして憧れの東京のマンションを購入した繭子は、他のママ友に見栄を張るためにサラ金からお金を借りていた。
いつしか返済が滞り、夫にバレて、せっかく買ったマンションを手放すことになる。
外から見た他人の生活は素敵に見えてもそうでないこともある。
瞳の心の吐露に印象的なものがあった。
『何でも話し合って解決しよう』と言った夫に瞳が心の中で呟く・・・
『相手が自分を否定しないと分かっている時だけ、人は相手に何でも言えるのだ』
『結局、いつも、正論で自分の意見を通してしまうあなた(夫)には何も言えない』
かつて、私も長女が小学生の時に、あるママ友と、かなり深刻な問題に発展したことがあった。
詳細な内容は書けないが、その時、私は誰よりも先に
夫に相談した。
相談と言うよりも話をじっくりと聞いてもらった。
いつもよりも事態が深刻だと夫は何かを感じたのだろう。
夫は私の話を聞き終わると
『もし、どうしてもうまく行かない時は、引っ越ししてもいいんだから、安心しろ』と言ってくれた。
夫から私や娘を責める言葉は一言もなかったし、相手を非難する事もなかった。
もちろん、それが解決法になるとは思わないし
『逃げるのか?』と言われるかもしれない。
けれども夫のその言葉に私はなぜかとても安心した。
『そうだ ここで、このままずっと苦しむくらいなら、あの人たちがいない場所へ行けばいいのだ』と、追い詰められた私の心が少し軽くなったのを覚えている。
我慢することも大切かもしれない。
ちゃんと向き合って解決することも大事なことかもしれない。
でも問題の渦中にいる時は、普段のように冷静に対処できないことも多い
『逃げてもいいんだよ』と言ってくれ、
私を少しも責めないで、私の選択を優先すると言ってくれた夫。
気持ちが楽になった私は、何とか普通に生活を続けようと心を切り替えられたし、
『もしどうしても無理になったら、その時は引っ越ししよう』と開き直れた。
その後、表面的には
そのママ友と関係改善はできたと思う。
まだ、私が30代だった頃の
もう20年以上も昔の話だ・・・
子育てだけではなくて、何か問題や悩みが起こったときに
正論や解決方法ばかりを一方的に伝えられるよりも
たった一言
『どんなことが起こっても大丈夫だよ』と、言われることが
どれほど心強いのかを感じれた私の出来事だった。
この小説の彼女たちも、たとえ一人でも、自分のことを受け入れてくれる人がいたら、ここまで自分を追い詰めたり、子供を追い込んだりはしなかったのかもしれない。
受験に不合格になっても
公立に行くことになっても
不登校になっても
それは君のせいじゃない
大丈夫だよ
一緒に乗り越えよう
と言ってくれる誰かを探し求めて一人で抱え込んでいた母親たち・・・
彼女たちに唯一共通点を探すとしたら、本来なら子供の父親である自分たちの夫に本心を打ち明けられなかったことかもしれない。
子供を産んだから立派な母親になれるわけではない
子供は母親が一人で育てるのでもない
責任を全て負わされて(負わされていると感じて)苦しんでいる母親もいる
結局、この小説では、彼女たちのママ友の関係は、息子たちが幼稚園を卒園することで終わりを迎える。
五人の母親がこれから交わり会うことはないだろう
それでも彼女たちの人生は続いていく
人間なんだから、時には間違った選択や失敗もするだろう。
ただ子供を他人の子と比べたり、自己実現の道具にはしてはならない。
子供には子供の人生があるのだから
これは私の自戒の念も含んでいる
自分(親)がどうしたいかではなくて
子供はどうしたいのかを考えた時に本当に進むべき道が
見えてくるのかもしれない
そして、その決定や責任を全て母親が一人で背負うことはないのだ。
かつて子育てで悩んだり、焦ったり、落ち込んだことのある私が
かおり、容子、瞳、千花や繭子になっていた可能性があったのかも、と
彼女たちのことを他人ごとには思えられない自分に気づかせてもらった作品だった。
そして、そんな私を、あの辛かった時に
そっと支えてくれた夫に感謝の気持ちを贈りたい。
長い文章をここまで読んでくださりありがとうございました。
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