アナログ派の愉しみ/音楽◎オードリー・ヘップバーン歌唱『素敵じゃない?』

もうひとつの
マイ・フェア・レディ


わたしが最も親しんできたミュージカル映画は『マイ・フェア・レディ』(1964年)だ。ジョージ・キューカー監督のもとでこの名作がつくられて30年ほどの歳月を経たころ、驚くべき発見があった。オリジナル・フィルムの劣化をデジタル技術によって修復する作業のさなか、映画会社の倉庫からオードリー・ヘップバーンが作中のナンバーをうたった録音が見つかったのだ。主演女優の彼女が役柄の歌をうたうのは当然のようだが、そこにはこうした事情が横たわっていた。

 
ストーリーはイギリスの劇作家バーナード・ショーの『ピグマリオン』(1912年)にもとづく。ロンドンの花売り娘イライザが下品なコックニー訛りをしゃべりちらしていたところ、それを聞きとがめた言語学者のヒギンズ教授から上品な言葉遣いを身につけるための特訓を受ける運びに。そして、努力の結果、ついに正しいブリティッシュ・イングリッシュをマスターすると、社交界にデビューして淑女の仲間入りを果たしたものの、いつしかふたりのあいだに芽生えた心情は当人たちの思惑を超えて……。

 
このアイロニカルな喜劇は絶大な反響を呼び、原作者のショーも参画してアンソニー・アスキス監督の映画(1938年)になったのち、アラン・ジェイ・ラーナー作詞/フレデリック・ロウ作曲によって『マイ・フェア・レディ』と題したミュージカル(1956年)に仕立てられてロングランを記録し、これをハリウッドが鳴り物入りで映画化したという次第。その際、舞台で主役をつとめていたジュリー・アンドリュースに代わって、当時、人気絶頂のオードリー・ヘップバーンを起用したことで紆余曲折のプロセスが生じた。

 
オードリー本人はもちろん、イライザのナンバーをうたうつもりで発声練習にも熱心に取り組んだものの、制作サイドは初めから専門歌手の吹き替えをもくろみ、「最強のゴーストシンガー」の異名を持つマーニ・ニクソンに白羽の矢を立てていた。のちに大指揮者となる音楽担当のアンドレ・プレヴィンは双方の歌唱を録音してミックスする方針で臨んだところ、最終的にほとんどをニクソンの声が占めることに。オードリーはとくに『素敵じゃない?(WOULDN`T IT BE LOVERLY)』は自分でうたいたいと訴えたが、それも受け入れられず、ショックのあまり「おお!」と叫んでスタジオから出ていってしまったという。こうしてとっくに失われたと思われていたオードリーの歌唱の録音が、映画公開から30年後、すでに彼女も世を去ったあとになって突如出現したことがサプライズと受け止められたのだ。

 
 チョコレートをおなかいっぱい食べられて
 部屋を暖めてくれる石炭もどっさりあって
 顔も、手も、足もぬくぬくと火照っている
 ああ、なんて素敵じゃない!

 
まだヒギンズ教授のもとに身を寄せる以前、花売り娘として暮らしていたイライザが下町の労働者仲間といっしょにうたう歌だ。そこではいくら貧しくとも、おおたがいに笑いあって、底抜けに明るい未来を夢見ることができた……。

 
広く知られているとおり、オードリーはベルギーに生まれ、幼いころ両親が離婚して、第二次世界大戦中は母親とともにナチス・ドイツ占領下のオランダで過ごし、栄養失調に苦しみながら反ドイツのレジスタンス活動に協力した。そんな彼女が戦後、映画初主演作の『ローマの休日』(1952年)でいきなりアカデミー主演女優賞に輝いたのをきっかけとして大スターへの階段を駆けのぼった。したがって、34歳で『マイ・フェア・レディ』のイライザを演じたときも、晴れて社交界のヒロインとなった後段の華やかな容姿とファッションがいちばんのセールスポイントだったが、どうやら本人のなかではみずからの少女時代を重ね合わせて前段の花売り娘のほうに強い共感を抱いていたらしい。それが、やがてユニセフ親善大使として世界の貧困にあえぐ子どもたちを支援する活動にもつながっていったのだろう。

 
現在では、映画の『素敵じゃない?』のシーンに実際のオードリーの歌唱を当てた映像を見ることができる。たとえ「最強のゴーストシンガー」にはおよばなかったとしても、そこからはあくまで一途に生きようとした彼女の真実の声が迫ってきて、わたしは目頭が熱くなるのだ。


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