アナログ派の愉しみ/本◎夏目漱石 著『こころ』(その1)
「ザ・小説」の
地位を占めた事情とは?
明治以降の日本で代表的国民文学、「ザ・小説」と言ったら、間違いなく夏目漱石の『こころ』(1914年)がその栄誉の地位を占めるはずだ。これまで一世紀以上にわたってロングセラー第1位の記録を誇り、中学・高校の教科書や青少年向け推薦図書などでも幅を利かせ、老若男女を問わず広く国民が親しんできた小説としてこれを凌ぐものは、漱石自身の他の作品を含めて世に存在しないだろう。わたし自身、中学生のとき夏休みの感想文の課題に出されて初めて読んだことを憶えている。それにしても、一体、何が『こころ』を「ザ・小説」の地位へと押し上げたのか?
全体は三部構成からなる。時代背景は明治の終わりごろ。まず『先生と私』では、大学生の「私」がたまたま鎌倉の海水浴で知りあった中年男性を「先生」と呼んで私淑する経緯が語られる。その「先生」は仕事をしないで済むだけの財産がある高等遊民で、東京の家に「奥さん」とふたりで暮らしていたが、仲のいい夫妻のあいだにどこか打ち解けないわだかまりが横たわっていることを感じ取る。つぎの『両親と私』では、大学を卒業した「私」は重病の床にある父親を見舞うためにいったん郷里へ帰り、将来の進路に迷っているうちに明治天皇の崩御が伝えられて、そこへ、思いがけず「先生」から長文の手紙が届く。その文面が最後の『先生と遺書』で、かつて大学時代に自分には「K」という親友がいて、いつしか同じ娘を愛する巡りあわせとなったとき、こちらが出し抜いて先に結婚の約束を取りつけたことで「K」は自死してしまう。以来、「先生」はそうした経緯を知らない「奥さん」との生活のなかでずっと罪悪感を抱きつづけ、いまやみずからも命を絶つという内容だった……。
実のところ、ストーリーそのものに特段の目新しさはないだろう。世間のどこにも転がっているたぐいの三角関係のメロドラマだ。その結果、一方の男が自殺して、もう一方の男は女と結ばれたものの、何年もたってから自責の念で後追い自殺するという筋立てはいかにもリアリティに欠けると言わざるをえず、このへんは小説を組み立てるうえでの手続き上のプロットと見なせばいいのではないか。たとえば、ミステリー小説における殺人事件が実社会のリアリティと無縁なのと同じように――。そう、わたしはいっそ『こころ』を「先生」の自殺の謎をめぐるミステリー小説と割り切ったほうが理解しやすい気がするのだ。
そんなふうに読み解くことで、初めてこの作品を成り立たせている特異な仕組みが明らかになるだろう。と言うのは、語り手の「私」は、こうした「先生」の衝撃的な死の体験からしばらくののちに過去の見聞を振り返っているわけで、すなわち、前段の『先生と私』においても、すべての結末を知りながら、あたかも知らないフリをして「先生」や「奥さん」との交流を語り進めていく。ここまで臆面もない二枚舌に、われわれは日常生活で滅多にお目にかからないけれど(お目にかかったらその相手を信頼しないだろう)、ことミステリー小説においては定型の叙述のスタイルに他ならない。
33歳の漱石がイギリスに留学した19003年(明治33年)当時、かの国ではすでにコナン・ドイルの手になる『シャーロック・ホームズの冒険』『シャーロック・ホームズの回想』のふたつの短編集が出版されて絶大な人気を博していた。周知のとおり、これらの作品では、ホームズの友人である医師ジョン・ワトスンが事件捜査の助手役をつとめ、その立場で史上最も有名な探偵の活躍ぶりを記録するという体裁を取っている。つまり、物語がはじまった時点で語り手は結末を知っているのに、まるで知らないフリをして語り進めるという、二枚舌ならぬ、ダブル・スタンダードの立体的な叙述によって大衆小説の新たな地平が切り開かれたのを、漱石も目の当たりにしたのだ。
『こころ』が単行本になった際、その序文において、もともと新聞連載をはじめるときにはこのタイトルで短編集にするつもりだったという経緯が明かされ、こう続けている。「其短篇の第一に当る『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、予想通り早く片が付かない事を発見したので、とうとうその一篇丈を単行本に纏めて公けにする方針に模様がへをした。〔中略〕私はそれを『先生と私』、『両親と私』、『先生の遺書』とに区別して、全体に『心』といふ見出しを付けても差支えないやうに思つたので、題は元の儘にして置いた」と――。
ここに漱石がしたためたのは、とくに気に留めることもなくダブル・スタンダードの叙述を用いて書き出したところが、作品が想定以上にひとり歩きをはじめたスリリングな事情ではないか。そして、おそらくはそれが『こころ』を近代日本の「ザ・小説」の地位に押し上げることにつながった事情でもあった、とわたしは睨んでいる。
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