アナログ派の愉しみ/本◎森田真生 著『数学する身体』

完全さは不完全さを創り出せない――
証明終わり?


過剰反応、と自分でもそう思う。イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの世界的ベストセラー『サピエンス全史』(2011年)を読んだのがきっかけだ。地球上を支配することになった現生人類の来歴について分析したうえで、将来、自然選択に代わってホモ・サピエンスの知的革新を担うものとして生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学を挙げてから、その三つ目の可能性をめぐり読者にこう問いかける。

 
「持ち運びのできるハードディスクにあなたの脳のバックアップを作り、ノートパソコンでそれを実行したとしよう。そのノートパソコンは、サピエンスとまったく同じように考えたり感じたりできるだろうか? できるとしたら、それはあなたなのか、それとも誰か別の人なのか? コンピュータープログラマーたちが、コンピューターコードから成る、まったく新しいデジタル方式の心を創り出し、それに自己感覚や意識、記憶を持たせられたら、どうなるのか? そのプログラムをコンピューターで実行したら、それは人なのか? もしそれを消去したら、あなたは殺人罪で告発されるのか?」(柴田裕之訳)

 
もちろん、わたしも始めは一種のレトリックと受け止めて意に介さず読み進めたのだけれど、時間が経つにつれてじわじわと不気味な感覚に囚われて、すでに自分がノートパソコンに取り込まれかけているような居心地の悪さを味わった。もともと閉所恐怖症のきらいもあるからだろう、そのうち胸がつまって呼吸困難さえきたしたのである。

 
つまりは、人間のとどまるところを知らない科学的探究の果てに、おのれが大地にすっくと立って存在する根拠までもが根こそぎ奪われて、ハラリが分析した「宗教」という虚構に寄り縋らないかぎり、われわれは正気を保てない地点までやってきてしまったのだろうか。いや、ことによると、その正気なるものもあっさりコンピューターコードに置き換えられるのかもしれない……。

 
そんな息苦しい葛藤のさなかに、一条の光をもたらしたのが森田真生の著書『数学する身体』(2015年)である。1985年生まれというからハラリより9歳年下だ。この若い数学者は、人類にとってものを数えるとはもともと具体的な身体行為であったのに、それが数学という学問になり、現実離れした広大無辺の世界が構築されていくにつれ、どんどん身体から遠くなったとして、いま改めて数学に身体の息吹を取り戻すことが大切だという。そのへん、たとえば両手の10本の指を使って数えるところから十進法が成り立った事情を踏まえてこう説いてみせる。

 
「このように、私たちが数学について考えたり、数字を使って計算したりしているときには、決して純粋に抽象的な『数そのもの』を認識できているわけではないのである。脳は数量の知覚を、サイズや位置や時間などの、数とは直接関係のない他の『具体的な』感覚と結びつけてしまう。それは、数字を知覚するためだけに進化してきたわけではない脳を使って数字を把握しようとしていることに伴う、いわば副作用のようなものである。脳は、数学をする上では随分厄介な器官なのだ。しかし、その厄介さこそが、数学的風景の基礎である」

 
この文章と出会って、わたしはようやく深々と安堵の息を吐くことができた。それはどうやら凡才だけの話ではないらしい。本書の後半では、万能計算機械(コンピューター)の基礎理論を構築したアラン・チューリングや、多変数解析関数論の分野を開拓した岡潔といった天才数学者たちも、そうした人類ならではの認識の厄介さに目を向け、むしろそこに真理がひそんでいるとして心の謎を究明していく姿が描かれる。

 
ごく大雑把に整理すると、人類はみずから数学を開発したにもかかわらず、その数学の完全さに対して、心はどうしても割り切れない不完全さを持っているということだろう。であればこそ、われわれはノートパソコンのなかに閉じ込められはしない。なぜなら、こうした心の不完全さを創り出せるコンピュータープログラムの完全さとは、それ自体が論理矛盾だから――。証明終わり。

 
証明終わり? 本当にそうだろうか。かつて10代のころ、ソ連のSF作家アレクサンドル・ベリャーエフの『ドウエル教授の首』(1926年)を読んで、男の生首が胴体から切り離されて実験器具のなかでべらべらしゃべっているイメージが強烈で、しばらくのあいだ夜ごとうなされる羽目になった。あの悪夢も最近、よみがえってきて……。


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