アナログ派の愉しみ/本◎江戸川乱歩 著『人間椅子』
痴漢や盗撮といった
犯罪病理を解き明かす鍵が
かねて不可解なのだ、痴漢や盗撮といった犯罪が。およそ児戯のたぐいの愚かしい行いが、なんだってこうもはびこるのか。しかも、いまや世間から厳しい目を向けられて、いったんことが露見すれば人生を棒に振りかねないにもかかわらず、それなりの立場にある連中までがしばしば摘発されてニュースとなっているのはどうしたわけか。さらに不可解なのは、日本特有のものらしいこうした社会現象に対して、マスコミは毎度おなじみの批判を繰り返すばかりで、その根っこにある病理を解き明かそうとする態度が見受けられないことだ。もしこの状況を多少とも正すことをめざすなら、そこから出発しなければならないはずなのに。
そんな観点に立ったとき、わたしは重大な鍵を与えてくれるのが江戸川乱歩の短篇小説『人間椅子』(1925年)だと思う。ストーリーは、美貌の閨秀作家のもとへ、ある日、分厚い手紙が届いたところからはじまる。そこには未知の男の以下のような告白がしたためられていて――。
専門の椅子職人の「私」は、平凡な仕事にすっかり倦んでいたところ、外国人向けのホテルから注文された大きな革張りの肘掛椅子に取り組んでいるさなかに、ふと思い立って、その内部に人間ひとりが座れるスペースをこしらえると、みずから身をひそめて椅子もろともにホテルへと忍び入った。もとより、当初はスキを見て椅子から抜けだして盗みでも働くつもりだったが、現実に自分の膝の上に西洋人たちが腰を降ろし、その肩や背を両腕で抱きしめるうち内面に変化が生じた。とりわけ若い女性の肉体の感触に惑溺するようになったのだ。こんなふうに綴っている。
「椅子の中の恋(!) それがまあ、どんなに不可思議な、陶酔的な魅力を持つか、実際に椅子の中へ這入ってみた人でなくては、分るものではありません。それは、ただ、触覚と、聴覚と、そして僅かの嗅覚のみの恋でございます。暗闇の世界の恋でございます。決してこの世のものではありません。これこそ、悪魔の国の愛欲なのでございますまいか。考えてみれば、この世界の、人目につかぬ隅々では、どのような異形な、恐ろしい事柄が、行われているか、ほんとうに想像の外でございます」
暗闇の世界の恋。悪魔の国の愛欲。それは、満員電車の人ごみのなかに埋没して、女性の下腹部に手をのばす痴漢やスカートの下にスマホを差しだす盗撮の振る舞いとも重なるものではないだろうか。すなわち、肉欲を起点としながら、異性の相手とじかに向きあわず、あたかも肘掛椅子の内部に籠もった男のように、相手とのあいだに心理的な膜を張りめぐらすことでいっそう野放図に肉欲が刺激されているらしいのだ。
だが、異常な快楽を堪能しつつも、「私」は次第に不満足を募らせていき、その心境をこう説明する。
「といいますのは、私は、数カ月の間も、それほど色々の異性を愛したにもかかわらず、相手がすべて異国人であったために、それがどんな立派な、好もしい肉体の持主であっても、精神的に妙な物足らなさを感じない訳には行きませんでした。やっぱり、日本人は、同じ日本人に対してでなければ、本当の恋を感じることが出来ないのではあるまいか。私は段々、そんな風に考えていたのでございます」
折も折、ホテルの経営者が代わって全面改装される運びとなり、男のひそむ椅子も競売にかけられた。その結果、なんと、「私」がかねて思いを寄せてきた美貌の閨秀作家のもとに引き取られて、まさにいまこの手紙を読む彼女が腰かけている書斎の肘掛椅子こそ――。こうしてストーリーは大団円を迎えるのだが、その先は痴漢・盗撮についての考察の材料から離れるので触れないでおこう。
問題が「同じ日本人」にあることは言うまでもない。相手とじかに向きあうことなく、椅子の革張りをはさんで伝わってくるだけの感触に対して、果たして国籍や人種の違いにどれほど意味があるのか。むしろ、ここで「私」がこだわる「同じ日本人」とは、肉欲の対象が相手から自己へ回帰したことを意味し、そこにしか「本当の恋」を感じられないとは、ひっきょう、かれの行動がマスターベーション(自慰)であったことを明かしている。痴漢や盗撮もまた、同じ原理にもとづくとすれば、傍目にはいかに児戯と等しく眺められようとも、さまざまな社会的立場の連中が厳しい制裁をものともせずやめられないでいる理由は明白だろう。
かくして、この状況を正すためには、ひとえに日本の男たちの成熟の底上げを図っていけばいい、という結論になるわけだが……。