アナログ派の愉しみ/音楽◎パガニーニ作曲『24のカプリース』

悪魔が奏でた
ヴァイオリンの秘密は?


その曲のイメージが、初めて耳にしたときのレコードによって固定されてしまうことがある。わたしにとって、パガニーニの『24のカプリース(奇想曲)』をマイケル・レビンの演奏で知ったのもそんなケースのひとつだ。おかげで、悪魔に魂を売り渡したという稀代のヴァイオリニストが残したこの練習曲集の不穏な気配にすっかりあてられて、以来、心ならずも遠ざける結果となった。

 
1782年イタリアのジェノヴァ生まれのニコロ・パガニーニが悪魔と関連づけられたのは、幼くして驚異的なヴァイオリンの演奏能力を発揮したことが理由らしいが、ただし、長らく活動範囲はイタリア半島にかぎられていた。そのかれが初めて外国の楽壇に登場したのは1828年、45歳のときで、ウィーン、ベルリン、パリ、ロンドン……などをめぐる6年間のコンサート・ツアーを繰り広げ、異常なまでの熱狂を巻き起こしたことから、悪魔のニックネームがヨーロッパ全土に轟きわたった。それには、とうてい人間業と思えない演奏技術に加えて、若い時分からの乱行にともなう梅毒や結核のせいで青白く痩せさらばえた外見の印象も寄与したろうし、さらには、みずからがコンサートの集客を目当てにことさら吹聴したところもあったようだ。

 
同じ時代に、ゲーテは戯曲『ファウスト』で、主人公の学者が悪魔の音楽に酔い痴れると、メフィストフェレスにつぎのようなセリフを吐かさせている。

 
「迷の海に沉(しづ)めて遣れ」(森鴎外訳)

 
おそらく、当時の聴衆はパガニーニの奏でるヴァイオリンにもこうした危険な魅力を聴き取ったのではなかったか。そのかれは、おのれの演奏技術の秘密を守るために自作を公表しようとせず、今日に伝わっている作品のほとんどは他人が実演をもとに楽譜に書き起こしたとされているなかで、くだんの『24のカプリース』は、例外的に本人が1820年に「作品1」として正式に出版したものだ。

 
そのあたりの具体的な事情はよくわかっていないものの、果たして、ここには耳が追いつかないほどの高速スタッカート(音符を短く切って弾く奏法)やスピッカート(弓を弾ませる跳弓の奏法)、左手によるピッツィカート(通常は右手で行う、弦を指で弾く奏法)、広域を駆けめぐるアルペッジョ(分散和音の奏法)……などといった超絶技巧がふんだんに散りばめられて、世のヴァイオリニストにとってはおいそれと克服できない難関として立ちはだかり、歴代の名だたるヴィルトゥオーゾたちでさえ全曲をレコードに残した例はごくかぎられている。

 
そうしたなかで、1936年アメリカ生まれの神童、マイケル・レビンはニューヨークのジュリアード音楽学校に学びながら、まだ10代で『24のカプリース』からの抜粋を録音してパガニーニ弾きとして脚光を浴び、1958年にあらためて全曲を通して演奏したレコードはクラシック音楽のガイド本で決定的な名盤の地位に置かれ、かくしてわたしも手に取ったのだった。

 
確かに、そこではあっと驚くばかりのヴァイオリンの妙技がつぎからつぎへと繰りだされて感服してしまうのだけれど、同時に、人間の感受性の限界ぎりぎりにまで追いつめられて、もはや狂気の領域へさまようしかない、そんな戦慄が湧き起こって胸苦しくなったのも事実だ。のみならず、レビンそのひとが録音後、精神を病んで麻薬を常用したあげく、35歳で自死とも事故死ともつかぬ最期を遂げたことを知るにおよんで、この曲をとても気楽に聴けなくなった。

 
こうして敬遠していたパガニーニの練習曲集と、久しぶりに再会させてくれたのはアリーナ・イブラギモヴァのレコードだ。1985年ロシア生まれ、モスクワのグネーシン音楽学校に学び、現在はイギリスを拠点としているこの女流ヴァイオリニストは、2020年(奇しくもレビンが世を去ったのと同じ35歳のとき)に新型コロナのパンデミックで演奏活動ができなくなったのを『24のカプリース』に取り組む絶好の機会と受け止め、「これらの曲には、隠れる場所もなければ、練習する近道もないの」とプロデューサーに告げてレコーディングに立ち向かったという。

 
その成果は、まことに驚嘆すべきものだった。これ見よがしな素振りなど一切なく、ヴァイオリンの超絶技巧のすべてがしなやかに、たおやかに、どこまでも美の世界に収斂していくのである。わたしはすっかり陶酔してしまった。ことによると、これこそがむしろメフィストフェレスの口にした「迷の海」であり、さらに深遠な狂気の領域へと立ち入った演奏なのかもしれない、と疑いながらも……。


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