アナログ派の愉しみ/映画◎レオ・マッケリー監督『めぐり逢い』
男と女が真実の
愛に出会うためには
若い時分にはぴんとこなかったのに、この歳になって胸を打たれるという映画がある。わたしにとって、レオ・マッケリー監督の『めぐり逢い(An Affair to Remember)』(1957年)もそのひとつだ。
確かに、いま観ても少なからず安直なストーリーだと思う。ヨーロッパからアメリカへ向かう豪華客船で、名うてのプレイボーイの画家ニッキー(ケーリー・グラント)と元クラブ歌手のテリー(デボラ・カー)が出会い、とうに分別をわきまえた年齢で、どちらも立派な婚約者がいるにもかかわらず、激しい恋情にとらわれてしまう。こんな会話を交わして。
「私たち、荒海に乗りだすのね」
「ああ。ふたりの針路は変わったのさ」
そして、ついにニューヨーク港に到着すると、ニッキーとテリーはマンハッタンを望みながら、半年かけておたがいに生活を整理して、同じ気持ちのままなら、あのエンパイア・ステート・ビルの展望台で落ちあって結婚することを約束して別れる。
このあと、ふたりはそれぞれの婚約者に破棄を伝え、新たな相手との人生に向けて生活の再建に取り組み、ニッキーは画商に作品を売り込むばかりでなく、街の広告看板描きにも絵筆をふるって生業とし、また、テリーは故郷のクラブに舞い戻り、夜な夜なステージに立ってはせっせと貯金にいそしんだ。やがて約束の7月1日がやってきて、ニッキーがプロポーズの準備を整えてエンパイア・ステート・ビルの展望台で待っていたところ、テリーは目と鼻の先の交差点で気が急いたあまり事故に遭って病院に運ばれてしまう。生命は取りとめたものの両足が麻痺した彼女は、自分で歩けるようになるまで彼の前には姿を見せないと思い定め、一方、待ちぼうけを食ったきり相手の消息も不明のまま放りだされたニッキーは自暴自棄の日々を送ったあげく、ヨーロッパに去ることを考える。こうしてさらに半年が過ぎ、ふたりは期せずしてクリスマスに再会を果たすと、すべてが明らかになり、あらためておたがいの愛を確かめて抱擁しあうのだった――。
この結末に、そりゃないだろう、とかつてのわたしは呆れたものだ。いくら大人のメルヘンだとしても、あまりにもご都合主義に過ぎる恋路ではないか、と。それが、いまになって激しく心を揺さぶられ、滂沱の涙までこぼしている自分の心情のほうが不可解だった。一見、他愛ない表面上のストーリーの裏側で、何かしら、もっと深刻なストーリーが進行しているように思えてならない。その疑問にどうやら答えを見つけたらしいのは、もうひとつの『めぐり逢い』と出会ったからだ。
実は、レオ・マッケリー監督はこの映画の約20年前にも、基本的に同じシナリオにもとづく『邂逅(Love Affair)』(1939年)をつくっていた。すなわち、そちらがオリジナル版で、こちらがリメイク版という関係になる。シャルル・ボワイエとアイリーン・ダンが主役のカップルに扮したオリジナル版の、古いニュース映像のようなモノクロームの画面を眺めていて気がついた。この作品が撮られたのは、豪華客船タイタニック号の北大西洋での沈没事故(1912年)から27年、また、世界一の高さを誇り「天国にいちばん近い場所」と喧伝されたエンパイア・ステート・ビルの開業(1931年)から8年というタイミングで、映画は当時の生々しいトピックを材料としていたことに。そのうえで、ふたりが豪華客船の船上でみずからの過去を捨て生き直そうと決意したこと、そして、エンパイア・ステート・ビルでの再会が交通事故で阻まれたあとでクリスマスに和解したことは、いったん死んだのちによみがえるという二度のプロセスを経て、ふたりが本当の関係に入ったことを表象しているのだろう。
死と再生が、真実の愛をもたらす――。それが映画の秘められた主題であり、オリジナル版からリメイク版へと注ぎ込み、ニッキーとテリーのドタバタ劇がわれわれの胸を打つ理由ではないのか。若い時分とは異なり、男と女の関係がとうていひと筋縄では済まないことを肌身で知る年齢に達したいまだからこそ。
ついでに、これに関連して、わたしの記憶に焼きついているエピソードを添えておきたい。もうずいぶん前に新聞記事で読んだことだ。老人ホームで長年寝たきり状態だった90代の男性が亡くなり、遺体を片付けていると、たどたどしい文字で書かれた手紙が見つかった。そこには、最後の歳月にケアを担当してくれた60代の女性介護士への胸中の思いが綴られていたという。このまま死んでいくのは無念だが、今度生まれ変わったときにはきっとそなたと結ばれたい、と。この世にも美しいラヴレターが、わたしには人間たるもの、最後のその日まで「めぐり逢い(Affair)」を希求すべきだと励ましてくれているようにも思えるのだ。