アナログ派の愉しみ/人形浄瑠璃◎文楽『仮名手本忠臣蔵』
そこで演じられるのは
現代劇としての「赤穂事件」なのだ
寛延元年(1748年)に大坂・竹本座で人形浄瑠璃文楽『仮名手本忠臣蔵』が初演されて大評判を呼んだのは、実際の「赤穂事件」から47年後のことだった。江戸城中で赤穂藩主・浅野内匠頭が高家筆頭・吉良上野介に斬りつけて即日切腹、お家断絶となり、家老・大石内蔵助以下の旧臣たちが主君の遺恨を晴らすべく、翌年吉良邸へ討ち入って首級を挙げたという出来事は、元禄の世のビッグニュースだった。が、当時最大のマスメディアである舞台にかけることは幕府によって厳しく禁じられ、ようやく半世紀を経て、それも登場人物や時代・場所の設定を変更したうえで実現の運びとなったのだ。
これを現代に置き換えてみると、半世紀前のビッグニュースといえば「三島由紀夫と楯の会の陸上自衛隊乱入・自決事件」(1970年)や「連合赤軍のあさま山荘人質立てこもり事件」(1972年)が挙げられるだろう。われわれ以上の年代にとっては記憶に生々しいし、いまも事件の直接間接の関係者は多数存命しているはずだ。つまり、赤穂浪士47名をいろは47文字に譬えた『仮名手本忠臣蔵』が人形浄瑠璃の舞台に出現したときにも、人々は見知らぬ遠い過去の時代劇ではなく、いまにつながるレッキとした現代劇として受け止めたろう。わたしはNHKと国立劇場に保管されているアーカイブ映像のDVDセットで全十一段を鑑賞できたのだが、これまでの忠臣蔵モノで味わったことのない、ぞわぞわと鳥肌の立つような緊迫感に襲われたのはおそらく現代劇であったからだ。
その七段目「祇園一力茶屋の段」は、たいていの映画やTVドラマに出てくるエピソードのプロトタイプだが、ここに充溢している息苦しいまでの葛藤はそれらには感じられないものだ。大星由良助(大石内蔵助)は仇討ちの企図を秘めながら、相手の高師直(吉良上野介)側の目を欺くため祇園で茶屋遊びに興じていると、そこへさまざまな人物がやってくる。由良助の放蕩に業を煮やす同志たち、敵方へ寝返って探索にあたる元家老、夫が仇討ちに加わる資金と引き換えに身売りした女郎おかる……。その兄の元足軽・寺岡平右衛門もまた一挙への参加を表明したのに対して、由良助は仇討ちを中止したと告げてこんなやりとりが交わされる。
由良助「其元は足軽ではなうて大きな口軽ぢやの。何と太鼓持ちなされぬか。尤もみたくしも、蚤の頭(かしら)を斧で割つた程無念なとも存じて、四五十人一味を拵えて見た、が味な事の。よう思うてみれば、仕損じたらこの方の首がころり、仕畢(おお)せたら後で切腹。そりやどちらでも死なねばならぬといふは、人参飲んで首括る様なもの。ことに其元は五両に三人扶持の足軽。〔中略〕われら知行ウーイ千五百石、貴様と比べると敵の首を斗升(とます)で量る程取つても釣り合はぬ釣り合はぬ。所でやめた」
平右衛門「これは由良助様のお詞とも覚えませぬ。わづか三人扶持取る拙者めでも千五百石の御自分様でも、繋ぎましたる命は一つ、御恩に高下はごわりませぬ。サア押すに押されぬは御家の筋目、殿の御名代もなされまするお歴々様方の中ヘモ見る影もねえ私めが差し加へてとお願ひ申すは、憚りとも慮外とも、ほんの猿が人真似。お草履を掴んでなり共、お荷物をヤツと担いでなり共参りませう。どうか御供に召し連れられて、由良助様、御家老様、どうか御供に召し連れられて。これはしたり、寝てござるさうな」
繰り返すが、このシーンは時代劇ではなく現代劇のものである。たとえば忠義といった観念に要約するのは簡単であれ、現実には身分や立場の上下にともなう相克が厳然と存在して、この舞台と向きあう「士農工商」の観客たちもその苦みを日々噛みしめていたのに違いない。相容れない両者が相互に理解して、由良助が平右衛門の参加を認めるまでには、まだどれほどの確執があり、どれだけの血や涙の流される必要があったのか、それこそが忠臣蔵のドラマを成り立たせているのだ。
さらに付言するなら、これを永遠の現代劇にしているのは文楽人形だ。舞台・映像を問わず生身の人間が演じるかぎりは必然的に俳優と役柄の分裂を含み、それは歴史という条件のもとに呪縛されているが、人形は異なる。たとえ生身ではないにせよ、由良助は由良助として、平右衛門は平右衛門として、それ以外の何者でもない存在として歴史に呪縛されることなく眼前に立ち現れるのだ(ちなみに、DVDセットに収められた1955年新橋演舞場公演の記録では、モノクロームの映像にもかかわらず、名人・吉田文五郎の手になる女郎おはるが人間以上の細やかさで女の業をあらわにするありさまに、わたしは息を呑んだ)。
さて、そこで問おう。われわれは「三島由紀夫事件」や「連合赤軍事件」を果たして、どのような形で現代劇として後世へ伝えていけるだろうか?