アナログ派の愉しみ/ドラマ◎『刑事コロンボ』

道化か、妖精か、天使か……
テレビが生んだ最も有名な「名探偵」の正体は


テレビが生んだ最も有名な「名探偵」は、ロサンゼルス市警殺人課のコロンボ警部だろう。1968年、当時40歳のピーター・フォークが扮するユニークな主人公の初見参となった『刑事コロンボ 殺人処方箋』は舞台劇にもとづく単発ドラマで、3年後に改めてパイロット版がつくられたあと、定期的なシリーズとして1978年まで合計45話が制作された。日本ではコロンボの吹き替えを小池朝雄が担当して「うちのカミさんがね」のセリフが流行語になるほど大ヒットし、NHKのゴールデンタイムに新作が放映される日はわたしも朝から浮き立ったことを覚えている。

 
コロンボはドストエフスキーの『罪と罰』に登場する予審判事ポルフィーリィをモデルとして、あらかじめ事件の真相が明かされたうえでの倒叙ミステリーのたたずまいは同じだが、いちばんの特色は、真犯人が貧乏学生のラスコーリニコフではなく、社会の上層のいわゆるエスタブリッシュメントであることだ。そのオーラをまとった相手に対して、ポンコツのプジョーに乗り、よれよれのコートを着込んだ、いかにも貧相な男がねちっこい捜査でじわりじわりと迫っていき、最後には完膚なきまでに屈服させるというパターンは、およそ従来の「名探偵」には見られないものだったろう。

 
この『殺人処方箋』も、高名な精神分析医が愛人の若い女優をトリックに使って、長年連れ添った妻を強盗の仕業に見せかけて殺害したところ、コロンボはその鉄壁のアリバイにわずかな穴を発見してこじ開けていき、ついには逆に相手の意表を突くトリックにかけて自滅に追いやるというストーリー。華やかなエスタブリッシュメントの末路に、わたしもつい溜飲を下げてしまうのはひがみ根性のゆえかもしれない。いずれにせよ、階級社会ならぬ格差社会のアメリカにこそ出現した「名探偵」であったろう。そう理解していたところ、いささか早とちりだったらしい。フランスの経済学者トマ・ピケティが世界的な格差社会の到来に警鐘を鳴らして、日本でもベストセラーとなった『21世紀の資本』(2013年)にこんな記述があるのだ。

 
「米国では格差は1950年から1980年の間に最も小さくなった。所得階層のトップ十分位(上位10パーセント)は米国の国民所得30~35パーセントを得ていたが、それは現在のフランスとほぼ同レベルだ。これが、ポール・クルーグマン(アメリカの経済学者)がノスタルジックに『みんなの愛するアメリカ』と呼んでいるもの――かれの子供時代のアメリカだ」(山形浩生他訳)

 
つまり、アメリカ合衆国建国以来の歴史のなかで、少なくとも白人社会においては所得格差が最小になった時代だったから、しがないイタリア移民の家系のコロンボでもエスタブリッシュメントたちと対等に向きあえたのだ。『殺人処方箋』の精神分析医が次第に追いつめられていく過程で、コロンボに対して「きみのようにしつこい人間は初めてだよ。だけど、愛嬌がある。驚くべきはその愛嬌だな。道化だと言われたことは? きみは油断もスキもない、ずる賢い妖精のようなものだ」と語ったのは、まさに正鵠を得ていたろう。格差の最小化にともなって、エスタブリッシュメントからすればふだん目にも留めなかった小市民が眼前に現れたとき、それがおのれを罪に陥れようとする者であっても人間ではなく、まるで道化や妖精のように受け止められたのに違いない。

 
『刑事コロンボ』は1978年にいったん終了し、10年以上の間を置いてのちにふたたび新シリーズとしてお目見えした。しかし、かつて巻き起こしたブームにとうてい及ばなかったのは、ピケティの言葉によれば「格差の爆発的拡大」が生じた1980年代以降のアメリカ社会においては、たとえ殺人事件の捜査であっても、一介の警部がエスタブリッシュメントの領域に足を踏み入れて対等に渡りあうなど、視聴者にとってリアリティが持てなくなったからではないか。もはや道化や妖精として活躍する余地はなかったのである。

 
神出鬼没のコロンボは1987年、ヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』で「壁」が崩壊する直前のベルリンに姿を現す。そして、あの照れ笑いを浮かべながら、自分の正体は天使だと告げたのだった……。

 

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