アナログ派の愉しみ/本◎青山透子 著『日航123便 墜落の新事実』
これまで見過ごされてきた
数々の目撃証言が明かすものは
1985年8月12日、月曜日。その日、わたしは仕事相手の接待で東京・新橋のカラオケスナックに繰り出し、宵闇が降りてきた時分から賑やかに宴席に興じていた。そこへ突然、羽田発・伊丹行きの日航ジャンボ機123便が行方不明になったとの第一報が飛び込んできた。さらに続報で、歌手の坂本九も搭乗しているらしいと聞き、無事の帰還を願って店内の全員で『上を向いて歩こう』を合唱したことを覚えている。
あれから30有余年。乗客乗員520人の生命を奪ったのは、ボーイング社による圧力隔壁の不適切修理が原因とされ、墜落現場となった群馬県上野村の御巣鷹の尾根には「昇魂之碑」がそびえ、毎年事故当日には慰霊登山が行われて、日航の社長が二度と事故を繰り返さないことを誓う――。こうして、単独機としては世界最悪の航空機事故も歴史のなかに織り込まれていくのだろう、とそんなふうに受け止めていたわたしの怠惰に鉄槌を食らわせたのが、青山透子の著書『日航123便 墜落の新事実』(2017年)だ。
当時、日航の客室乗務員だった著者は、事故機のクルーと同じグループで乗務した経験もあり、犠牲者には親しい先輩や同僚が含まれていたという。痛切な悲しみの一方で、さまざまな情報に接するうち事故の原因に疑問を抱くようになり、「あの飛行機に偶然乗って人生を強制的に終わらせられた乗客にとって最も知りたいことは、どうして自分たちが死ななければならなかったのか、ということではないだろうか。そして、乗客を救うべく、経験したこともない突発的事態の中、自らの死を覚悟しながらも最後まで望みを捨てずに不時着を想定して冷静に行動した乗務員たちにとって、曖昧な結論では納得いくはずがない」との思いから、自分の手と足で真相の解明に取り込むことを決意する。
そこからが凄まじい。著者は日航を退職すると、東京大学大学院に入って博士号を取得し、官公庁や各種企業の人材教育の仕事に携わりながら、おのれに課した使命に立ち向かう。つまりは、ことと次第では国家との全面対決もありうる活動のために、それにふさわしい知的鍛錬を行うところからはじめたというわけだろう。とかく長いものに巻かれがちな国民性にあって、わたしにはその姿が日本人離れしているようにさえ映るのだ。
果たして、丹念なうえにも丹念な調査の先には、運輸省交通事故調査委員会が示した報告とはまったく異なる事件の見取り図と、あくまで真相を隠蔽しようとする国家の論理が浮かびあがってくる。著者の推論を支えているのは、従来見過ごされてきた数々の目撃証言と徹底的な検証作業であり、そのプロセスこそが本書の価値であれば、ともするとスキャンダラスに受け取られかねない推論の部分だけをここに摘記するのは差し控える。そのうえで、最も衝撃を受けた文章を書き留めておこう。
周辺からも、はあはあと、荒い息遣いが聞こえてくる。
「おかあさん」「早くきて」「ようし、僕は頑張るぞ」そんな声も聞こえてくる。
すると、闇の中からヘリコプターの音が近づいてきた。夏山特有の湿り気のあるもったりとした空気が、一瞬にしてかき乱される。〔中略〕
「助けてください、私は…ここに…」と、夢中で手を振る。
「助けて」「帰っちゃいや」「誰か来て」
そのような何人もの声をかき消すように、ヘリコプターは爆音と共に段々と遠くへ去っていった。周りでは、はあはあと何人もの荒い息遣いだけが聞こえてきた。
生存者のひとり、非番で乗客として乗り合わせた客室乗務員の落合由美が発表した「落合証言」にもとづく記述だという。つまり、日航123便の墜落直後、現場周辺にはかなりの人数の生存者がいて、そこへ正体不明のヘリコプターがやってきたものの、かれらを救助することなく飛び去ったというのだ。一体、何が起こったのか? この不可解な現場の事態について、著者はつぎの『日航123便墜落 遺物は真相を語る』(2018年)で執拗に追及し、さらに恐るべき真相に迫っていく。
テレビや新聞の大マスコミが見て見ぬふりをするなかで、青山透子のたゆむことない調査活動はすでに最新の『JAL裁判』(2022年)まで計6点の書籍に結実し、世間の一部には彼女の仕事をあげつらう向きもあるようだが、こうした強靭な持久力はまさに正真正銘のジャーナリストのものだろう。と同時に、わたしは深甚の敬意をもって、日本人離れの印象をいっそう強くするのである。