アナログ派の愉しみ/映画◎チャン・イーモウ監督『妻への家路』
それは人生100年時代の
夫婦関係を予見するものか
感動させてくれない映画、と言ったらいいだろうか。チャン・イーモウ(張芸謀)監督の『妻への家路』(2014年)だ。興行成績を目当てに観客を泣かせたいと意図するなら(とくにわたしのように涙腺のゆるい者であれば)いかようにも方法がありそうなストーリーにもかかわらず、熱いものが込み上げかけると、さっと身を引くように間合いが外されてしまい、やり場のない思いがわだかまっていく……。
中国の文化大革命が終結して、西域の辺地で強制労働に従事していた元大学教授(チェン・ダオミン)が20年ぶりに家に戻ってくる。この間、夫の帰りを待ちわびていた妻(コン・リー)は、かつて夫を密告した娘を許さず、アパートにひとりで暮らしながら心を病んで、ようやく再会を果たした相手を夫と認めることができない。そこで、夫は別居する娘の協力を得て、あの手この手を尽くして妻の記憶を回復させようと試みる。もし観客の感動を欲するなら、妻はそんな相手の一途な態度を受け入れ、娘とも和解して、家族3人の再生をほのめかすだけでもいい。わたしなんぞ号泣するだろう。
しかし、この映画はそうした感傷のドラマを一切廃した地点に成り立っている。結末を明かしてしまうなら、最後まで妻の記憶は蘇らずに、夫を愛しながら、眼前の夫を頑なに拒み、ラストシーンではいまや年老いたふたりが、その日も駅前に出かけ、夫の名前を手書きしたプラカードを掲げて帰還を待つところで終わるのだ。
手元のDVDの特典映像のインタビューで、チャン・イーモウ監督は「文革の時代背景は気にしなくていい。どんな時代にも起きる話だから。ただ物語だけに注目してほしい」と語っている。こうした出来事がどんな時代にも起きる? まさか。むしろ、文革直後の1970年代より、それから半世紀近くを経た現代こそアクチュアリティがあるのではないだろうか。
近年、日本では盛んに「人生100年時代」と喧伝されている。もとより、医療技術のめざましい進歩ともあいまって、世界に冠たる長寿社会が現出したことは寿ぐべきだろう。その一方で、わたしたちの脳裏にある夫婦・親子のビジョンは、まだ人生50年だった時代に確立されたものではないか。その素朴なビジョンを、とうに人生80年時代に入って以降も、かなりの無理をしながらだましだまし保持してきたのが本当のところだろう。
わたしは図らずも離婚・再婚を体験した者として、みずからの至らなさを自覚しつつ、そうした時代の流れのなかで家族のビジョンのうめき声を聞き取らずにはいられない。仮に人生100年において、男女が25歳で結婚し、50歳で子どもの自立を見届けたとすると、その25年間のあとに50年間の夫婦ふたりきりの生活が待っていることになる。いくら結婚式で本心から生涯の伴侶の誓いを立てたとしても、だれがこれだけの遠い先について確信を持つことができるだろう。子どもの側にしたって、自立してからなお50年間、親の存在するのが当然という事態は想像の外に違いない。
人生100年時代の到来によってこれから起きるのは、夫婦・親子の心情の関係と生存の関係とのあいだに否応もなくギャップが拡大するということだ。何も、人生のフェーズに合わせた離婚・再婚が解決策になると言うつもりはない。が、じゃあ、そのときに夫婦・親子はおたがい、どのように向き合えばいいのだろうか。チャン・イーモウ監督が突きつけたのはこうした未来に対して、目下、日本以上のスピードで社会の高齢化が進みつつある中国からの真摯な問題提起ではなかったか?