アナログ派の愉しみ/本◎大江健三郎 著『政治少年死す』

57年ぶりに
封印が解かれた意味とは


大江健三郎が亡くなった。現代日本文学の大きなひとつの区切りだろう。

 
その大江が26歳のときに書いた『政治少年死す』は、近年、『大江健三郎全小説』第三巻(2018年)への収録によって実に57年におよぶ封印が解けた。これは、雑誌『文學界』1961年1月号に掲載した『セヴンティーン』に続き、翌2月号に第二部として発表された短篇で、前年10月に日比谷公会堂で発生した日本社会党の浅沼稲次郎委員長刺殺事件の犯人、大日本愛国党元党員・山口二矢がモデルとなっている。その後、発行元の文藝春秋に対して右翼団体などから抗議が浴びせられ、つぎの3月号誌上で編集長が謝罪して以降、現代文学史の闇に葬られたのである。

 
主人公の「おれ」はオナニーに耽溺している17歳の少年だ。なにごとにつけ無気力な日々を過ごしていたが、たまたま新橋駅前で右翼団体の街頭演説に出くわし、そのボスの誘いで入団してからは高揚感を覚え、まわりの家族や友人が恐れるにつれていっそう凶暴な気力が漲っていき、やがて「天皇陛下への私心なき忠」が自己の生き方と確信するようになる。この第二部では、全国各地で左翼の集団と騒乱を繰り広げながら、ついに公衆の面前での野党党首の殺害へとひた走っていくさまが描かれる。そんな「おれ」は決行前夜、こうした内面を吐露する。

 
おれは自涜しようと性器をもてあそびはじめたが、それは百回の自涜につかれてしまった物のように、決して息づき膨らみ硬くなり柿色をしてこない。青黒くぐにゃぐにゃと股倉のなかで恥かしがっている。(中略)おれは最低で、それは確かにおれの十七歳の誕生日の夜に似ていた、おれは怯えきったインポテのセヴンティーンなのだ、そしておれは苦しみながら浅い眠りをねむる一瞬、自分が美智子さんで、それは結婚式の前夜で、父親、母親たちの前で恐怖から涙にむせんでいるというような夢を見て叫びたてながら眼ざめた、またおれは自分がタジマモリで、しかもおれが世界の隅からもってくるために艱難辛苦した花橘の実をバルザックのようなガウンを着た天皇に《なんだ、汚ならしい》とでもいうように無視される夢も見た。

 
この饒舌な独白体は、わたしにもうひとつの短篇小説を思い起こさせる。深沢七郎の『風流夢譚』だ。こちらは『政治少年死す』よりひと足早く、雑誌『中央公論』1960年12月号に発表された直後から、右翼団体の激しい糾弾だけでなく、宮内庁も民事訴訟を検討するなどの前代未聞の大騒動を引き起こした。こうした成り行きが大江作品にも影響をおよぼしたのだが、その後も混乱は収まらず、1961年2月に日本愛国党に所属していた17歳の少年が中央公論社社長宅に侵入して家政婦を殺めるという事態が生じたことにより、『風流夢譚』も固く封印されて、それは現在に至るまで解かれていない。

 
『中央公論』のバックナンバーを繰ってみると、その作品は谷内六郎のお祭りのカットを添えて巻末に掲載されていた。ある夜、「私」は都内で革命がはじまった夢を見る。群衆とともに皇居へと雪崩れ込んでいって阿鼻叫喚の光景を目にするのだが、そこにはこんな描写も含まれている。

 
その横で皇太子殿下と美智子妃殿下が仰向けに寝かされていて、いま、殺られるところなのである。私が驚いたのは今、首を切ろうとしているそのヒトの振り上げているマサキリは、以前私が薪割りに使っていた見覚えのあるマサキリなのである。私はマサカリは使ったことはなく、マサカリよりハバのせまいマサキリを使っていたので、あれは見覚えのあるマサキリなのだ。(困るなァ、俺のマサキリで首など切ってはキタナクなって)と、私は思ってはいるが、とめようともしないのだ。そうしてマサキリはさーっと振り下ろされて、皇太子殿下の首はスッテンコロコロと音がして、ずーッと向うまで転がっていった。(中略)こんどは美智子妃殿下の首がスッテンコロコロカラカラカラと金属性の音がして転がっていった。

 
ふたつの文章を並べてみて、われわれはどのように受け止めればいいのか? 六〇年安保闘争後のささくれだった世相を反映したにせよ、たんに天皇制についてひとりよがりの見解を表明しただけだったら、ここまで不穏な気配は迫ってこないだろう。そこに「性器」や「首」などの肉体の表現が持ち込まれたことによって、ただならぬ感覚が生じた、という理解はわたしだけのものではないはずだ。発表当時の激烈な拒否反応もそのへんが作用したのではあるまいか。とは言え、ケシカラン、と声高に駁するだけでも済まないと思う。なぜなら、聖なるものと肉体の表現を混交させるのは、はるか『古事記』神代巻からつらなる言語空間の伝統とも観察できるからだ。

 
それにしても、のちのノーベル賞作家の作品が、本人の意思に反して半世紀以上も公刊されなかった現実を世界はどう見ているのだろう。われわれは当たり前の既得権のように言論・表現の自由を考えているかもしれないけれど、国際的なジャーナリスト組織が昨年(2022年)公表した「世界報道自由度ランキング」で日本は71位とされ、G7諸国のなかでは最下位、東アジア地域でも台湾(38位)や韓国(43位)の後塵を拝していることに、もっと深刻な目を向ける必要があるのではないか。


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