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アナログ派の楽しみ/スペシャル◎安岡章太郎の「ひざ」

わたしが出版社で仕事をしていたころ、心に刻まれたエピソードをお伝えしたいと思います。もちろん、記憶にあるとおりに書くつもりですが、文章責任はすべて当方が負うものとご承知ください。また、敬称略とさせていただきます。

そのころ、安岡章太郎には文壇の大御所といった風格があった。「第三の新人」のひとりとされた作風は人懐こい柔らかなものだったが、まだ20代の駆け出し編集者にはどこか近寄りがたい厳しさも感じられた。だから、当時、雑誌の編集部で担当していた「私の書斎」というカラー・グラビア企画への出演を申し込んだとき、あっさりと応諾していただいたのにはかえって戸惑ってしまったほどだ。

取材当日、カメラマンを同行して自宅へ赴くと、安岡はにこやかに迎えてくれて、いかにも落ち着いた風情の和室でスムースに写真撮影が完了したのち、わたしは「お原稿は?」と尋ねた。あの時分、高名な執筆者の原稿には敬意を表して「お」をつけたり、「ぎょっこう(玉稿)」と称したりする習わしが残っていたのだ。書斎での写真に400字ほどの原稿を添えたいと事前に伝えておいたので、そのことを口にしたわけだが、原稿という単語が出たとたん、安岡の表情から笑みが消えて険しい目つきになり、一週間後に受け取りにくるようとの仰せだった。

翌週あらためて訪問したわたしは、洋風の応接間のほうに案内された。そこにはジャズ好きで知られる安岡らしく外国製の巨大なスピーカーが鎮座していて、手ずから取っかえ引っかえレコードをかけてくれた。ひとしきり音楽談義をうけたまわったあとで、わたしが「あの、お原稿は?」と催促すると、安岡の顔にはふたたび緊張が走っていったん席を立ち、茶封筒を手に戻ってきて無言で差しだした。そのときの光景はいまもけっして忘れない。すでに60代半ばに達して日本芸術院賞などの栄誉に浴した作家が、わたしの向かいのソファにちょこんと腰掛け、両のひざを揃えてそこに左右の手を置いたのだ。まるで小学生が教師から作文の宿題に点数をつけてもらうかのように。

わたしはようやく理解した。この大作家にとって、原稿の執筆とはつねに強い畏怖をともなうものであるらしいことが。そして当然ながら、今度は緊張の順番がこちらにまわってきた。だって、この場面で安岡の文章について自分の口で感想を伝えなければならないのだから。わたしは震える指で茶封筒から肉筆の原稿を取りだして広げたものの、頭が真っ白になってまったく文字が目に入ってこなかった……。

ひっきょう、こうしたときに編集者が口にできる言葉はひとつしかない。「面白いです」。もとより評論家などではないのだから、妙な理屈をこねてみてもはじまらない。要は、作家の原稿に対して「面白いです」のひと言に説得力を持たせられるかどうか、そこに編集者の器量があるのだろう。現在のわたしは、40年前のケツの青い自分に向かってそう教えてやりたいと考えている。

追記
このとき安岡から頂戴した「お原稿」を以下に写しておきます。なお、題はわたしがつけたものです。

机と腹の関係

安岡章太郎

 戦後、ものを書き出したのは昭和二十五年頃からだが、当時はカリエスで背中の具合が悪かったので、机に向うことが出来ず、腹這いになって枕を胸に当てて書いていた。それがクセになって、病気がよくなってからも何か書くときは腹這いになったものだ。机で書くようになったのは昭和四十年代になってからである。
 しかし、本当はいまでも寝て書きたい。腹這いになって都合がいいのは、眼が自然に真下を向くので、よそ見をしないですむことだ。机に向うと、壁だの、天井だの、窓の外の景色だの、視線があっちこっちに移って、どうも精神が集中しない。だが、中年過ぎてからは、だんだん下腹がセリ出してきて、ついに腹這いでは苦しくて何か書くどころではなくなった。止むを得ず机で書くようになったが、そうなるとますます腹は出っ張ってくるようだ。
 何とか腹を引っこめる工夫はないものか。

(『中央公論』1986年1月号)

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