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ブラック企業と市場原理主義

 世の中には、自由主義を高く掲げながら、長時間労働を労働者に強いたり、あるいは、わざわざ労働者を疲弊させるブラック研修(例えば2日も3日もほとんど眠れないとか)を、やるのを好むイカれた危険な経営者が存在する。こういう狼藉経営者は、アダム・スミスの「見えざる手」も好んでよく使うけど、どういうワケか当の本人たちは、「新自由主義者」や「市場原理主義」と呼ばれるのをとても嫌がる。
 故宇沢弘文先生の見解によると、「新自由主義が極地までいくと、利益を得るためには合法なら、なんでも許される市場原理主義に至る」というものだった。それと考えると皮肉な話だけど、確かにブラック企業の経営者に対して、「新自由主義者」や「市場原理主義」のレッテルを貼るのは不適当かもしれない。あのような経営者は、労働基準法を蔑ろにするから、ブラック呼ばわりされているのだから。アダム・スミスだって、長時間労働は否定していたしね。

 新自由主義や市場原理主義の肝は、原則的に市場での自由競争を尊重して、政府による規制や介入を極力減らしていくことにある。従って、現行の市場に対する諸規制を積極的に減らしたがる人たちは、そうした主義の色が濃いと判断するのが妥当だ。だから、労働基準法違反等のことを差し引きけば、規制緩和を強く掲げるブラック経営者は、市場原理主義者か新自由主義者と呼んでいい。それでも彼らがこの呼称をつけられるのを嫌がる理由は、世間的にも印象が悪い呼び名だからだ。この2つは、一般的に利己主義的な思想に見られている。世のブラック経営者が嫌がるわけだ。

 「私は自分の利益ではなく世のため人のために尽くしてきたから、厳しい市場競争で勝つことができた。だからさらに規制緩和をするの方が正しい!」という企業経営者は多い。しかしそれは人が必ず厳守しなければいけない正義ではない。あくまでも一つの思想形態に基づいたものだ。もちろん、そうした主張の方が正しい状況というもあり得るはずだ。しかし、その逆もあり得る。私が新自由主義者をはじめとする経済自由主義者に対して批判的な理由の一つには、彼らが間違いなく、自分たちが持った既得権益を既得権益だと認めないことがある。これの具体的な例えをいうなら、かつて宇沢先生が想定した「三里塚農社の定款」について触れる必要がある。

 三里塚農社とは、農業を市場競争により適応させようとした農政の在り方を反省し、農業の営みの単位を、個人から集団へと移行させるものだった。もっと詳しく具体的にいうと、農地を共有の形状にさせて、農産物の生産や加工、販売、必要な技術、経営研究などを一つに統合化するものだった。注目すべきは三里塚農社が、株式の扱い方が通常の株式会社とは全く異なる点だ。社員たちは所定の株式を持つことを必要とし、社員はその株を売却できない。株式の譲渡は可能だが、農社の承認なしにはできない。このことは、宇沢弘文著「社会的共通資本」に書いてあるが、残念ながら、社員以外が株式を持てるのかは不明だし、社員以外が持てたとしても、どこまでが限度なのかも分からない。しかし一般的な株式会社とは異なり、自由な株の売買は不可能なのは確かだろう。
 だが、農業法人の全てが三里塚農社と同じ形態になるように、法改正されそうになったらどうか?間違いなく農業事業を行う大企業などが反発する。そのように法改正された場合、彼らが失ってしまうものはなにか?漢字4文字の「既得権益」だ。そのことは否定しようがないが、経済自由主義者は頑なに、それを自分たちの既得権益だとは認めないだろう。まるで、「市場競争に制限を設けることで利益を得ている層=既得権益(悪)」で、「市場での自由競争で利益を得ている層=反既得権益層(正義)」という認識だが、その言葉の意味を完全に歪曲していることになる。こんな妄信的な人物が経営者だと、社員に非道な長時間労働をさせて過労死に追いやっても、「自分は全く悪くない」と思い込む可能性がある。非常に恐ろしいことだ。