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真実交換価値(実質価値)の正確な一尺度は、その商品に投入された労働量ではなく、その商品が支配(購入可能)できる労働量だという説〜経済学原理第二章第四節〜

 古典派経済学の労働価値説には、投下労働価値説と支配労働価値説がある。前者はある商品を作るために、どれだけの労働が投下する必要があるかを示している。後者は、ある商品と交換することに、どれだけの労働を支配(労働の購入もしくは雇用するという意味)できるかを示している。もう少し詳しくいうと、雇い主がある商品の生産において、労働者に働いてもらうためには、当たり前だが現物にしろ通貨にしろ報酬が必要になる。出来上がったその商品のいくつかを現物支給にするか、売り上げで入手した通貨と交換して支払ったりするが、生産された商品でどれだけの労働量を雇用できるかの分析は、支配労働価値説に基づいているというワケだ。

 リカードは投下労働価値説を支持して、支配労働価値説を否定した。それはなぜかというと、商品を作り出すための労働量と商品と交換できる労働量は、必ずしも同等だとはいえないとリカードは考えたからだ。一つの仮定としてもし、ある労働者が同じ期間(同じ労働量)において、以前よりも2倍の数量の商品を生産することが可能になったとしよう。給料は今までの2倍になるかもしれないが、必ずそうなるとはいえない。もっというなら、労働者の平均的な労働量が2倍になったとしても同じ話になる。そのような変動を理由に、支配労働価値説は正しくないとリカードは判断した。ただし、投下労働価値説の方にも不確かなところがある。もう一度前回触れた文章を引用するが、「イングランドおよびインドのモスリン(muslins)がドイツの市場にあらわれるときには、その相対価格は、それがついやしたであろう人間労働のさまざまな量には少しも関係なくもっぱらその相対的品質によって決められることであろう」(小林時三郎、1968年1月16日、マルサス経済学原理上、P164)ということである。

 今回は極めて短い文章になってしまったが、この節は本書でも10ページ足らずだったので、長い文章を書くのが難しかった。それを了承してくたら幸いである。もっとも、次の節もほとんど同じくらいの少なさだけど。