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時を戻せるならじいちゃんと将棋を指したい
時を戻せるなら何をしたい?
誰しも一度はこの問いかけをされたことがあるのではないだろうか
当たりの馬券を買う
あの時のあの子に告白をする
全部やめて若いうちに世界一周旅行をする
いろいろあると思うが私がその問いかけをされたのであれば間違いなく
『じいちゃんに将棋を教わる』という。
頑固で無口、でも優しくていっぱい遊んでくれたじいちゃん。
父親に
『一緒にサッカーしようよ』
とお誘いをかけたところ
『いまから読書するから無理』と断られた。
そんな時もじいちゃんが一緒にサッカーをしてくれた。
車の運転が好き+田舎に住んでいる
そんな理由で車でお出かけすることが多く、愛車のディアマンテはすごくかっこよかった。
スピード違反でよく捕まって免許証は万年青色。
私が同乗してる間だけでも3回は捕まった。
スピード違反取締強化週間+よく取締してる道+対向車のパッシング
これだけ条件が揃ってる中で
『この道はこの速度までは大丈夫なんや』と取締ギリギリの速度で走り抜けて普通に捕まった話は今でもお盆などて語り継がれている。
そんなスポーティーでキュートなじいちゃんは将棋が好きだった。
当時プレイステーションが出たばかりの時代で将棋のゲームをよくしていたのを覚えている。
実物の将棋も持っていて、1人で将棋を指していたのが懐かしい。
当時小学生だった私は遊戯王カードなどの対戦型カードゲームの全盛期
もっぱらカードゲームをするか、じいちゃんのプレステで車のゲームをするかそんな具合
何より将棋は難しそう、、
ルールがわからない、、
そんな理由で将棋との距離感は遠いままだった。
じいちゃんからすれば
孫と好きな将棋が指せたら最高だったと思うが、無理やりやらせるのはどうかという気持ちがあったのだと思う。
結局じいちゃんから将棋を教わることはなかった。
基本的に元気なじいちゃんだったが
私が小学生の時ガンになり、極度の病院嫌いだったので発見も遅れ、しばらく治療していたが帰らぬ人となってしまった。
ものすごく悲しかったが
悲しむことでじいちゃんが帰ってくることはない。
幼いながらもわかっていたので我慢していた。
その時ふと思った
『じいちゃんと将棋を指したかったなー』
生前であればいつでも指せたのに、
電源とゲーム機があればいつでもできたゲームを優先して、カードがあればいつでもできるカードゲームを優先して
限りあるじいちゃんとの時間をしっかり過ごさなかった。
悔いても悔やみきれないとはまさにこのこと
人生は儚く短い
あっという間に年をとるし
気をつけていてもいつ病気になるかは正直運頼みなところもある
その人生の中で自分の子供、親、祖父母全員が元気で過ごせてる時間というのはすごく貴重だと思う。
だいすきなじいちゃんが亡くなるのは少し早かったけど
それによって気づくことがたくさんあって
自分の人生を生きるパワーになっている。
将棋指したかったなーって思うぐらいなら
将棋を指したらいい。
旅行行っときゃよかったなーって思うぐらいなら
旅行に行ったらいい。
親に育ててくれてありがとう言えたら良かったなーって思うぐらいなら
育てくれてありがとうと言えばいい。
好きだと言えば良かったなーって思うぐらいなら
好きですと言えばいい。
自分の発言、言動で誰かが喜ぶならば今すぐそれをするべきだ。
後悔なんてする必要はない。
後悔は防げる。
自分の大切な人たちにしっかりありがとう言えているだろうか?
なんだか恥ずかしくてムズムズする
別に言わなくてもわかっているだろう
自分ばっかり言うのもなんか損してる気分
私も昔はこの価値観が強かったが、
そんな価値観は捨てた方がいい。
まずは大事なひとに『ありがとう』
と伝えるところから始めよう。
そうすれば自分の最期が来た時に
『我が生涯に一片の悔いなし』と言える
だれでもラオウになれるのだ。(北斗の拳)
亡きじいちゃんから将棋を教わることはできなかったけど
ラオウになるための方法は教えてもらえた気がする。
まさに人生の王手である!ラ!オウ!
じいちゃんありがとう!