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インスタントな読み(批評について⑥)
前回予告編について書いたが、予告編だけを見て、映画を見た気になる、というかすることがある。
映画は長い。
2時間のまとまった時間は、なかなかとれない。
物理的にとれないし、集中力も続かない、コンディションの問題も起こる。
ToDoの優先順位からすべり落ちてしまう、作品鑑賞。
「他人の読み」の感想文や批評文をなぞることのほうが、実際に作品鑑賞するよりもインスタントで簡単である。
5時間かけて読む本が、2時間かけて見る映画が、感想文では数分で読めてしまう。
他人の読みだろうが関係ねー。
ネタバレしてくれていたら、さらに内容がわかってよし。
人はなんで、作品そのものではなくて、そんなインスタントな感想文に飛びつくのだろう?
本当に見る価値があるのかどうか、時間のムダな浪費にならないように、値踏みしているわけだ。
長時間労働で、余暇が少ない僕らには、時間がないから。
世の中に出回っている、見るべきもの、読むべきものが多すぎる。
それは3つの要因があって、文明が積み重なって歴史が深いからと、人類が増えすぎて多様すぎるからと、ネットなどのツールが高度になりすぎて日々吐き出す情報が多すぎるからだ。
長時間労働でないあなたには、しかし、全体的な、時間の価値のデフレーションがある。
都市部まで飛行機で1時間、青春18切符で9時間。
どっちを選ぶと言われたら、移動そのものを楽しみたい人以外は、飛行機を選ぶだろう。
そうしてより多くの観光地をめぐるだろうし、より多くのアトラクションに参加するだろう。
でも、短時間で済む手段を選んだ時に、我々は何を失っているのか。
飛行機、電車、自家用車、自転車、徒歩。
昭和、マイカーの時代、高速道路が通っていなかった道を、下道を使って移動した。ところどころで休憩したお店たち。窓から見える景色を楽しんだ。
高速な移動では景色を楽しむ余裕などない。
そして、人の流れは変わり、道路脇に栄えていた店や街は、姿を消していく。
今更車窓の風景を楽しむスローな移動を、なんて、楽しもうにももうその道路がないということになる。
高速でやることで、我々は何を失っているのだろう。
そこに自覚的にならなければ、人はインスタントな手段を選び続けるだろう。
私のようなおじさんの場合、そこに自覚的に、意識的にならなければ、可処分時間も少ない気分なのだし、決して難しいほうを選ばない。
昔なら図書館に行って、本を探して、じっくり読んで、ノートにでも書いて、やっとわかっていたようなことが、手許のスマホで10分もYoutubeの解説動画を見れば、かなり分かった気になる。しかも図解と動画と音声つきだ。
若い人たちの場合、何を失っているのかさえ分からないかも知れない。
スマホを使わないデジタルデトックスを体験したり、動画ではなく文章を選んだり、種から野菜を育てて食べてみたり、という体験は、重要なことだと思う。