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心をなくさずに、文学的であり続けるための(社会人の武装の仕方③)

長時間労働をして、疲れて帰ってきて、酒を飲んで、ショート動画を見て、寝る。
文学的、とか、哲学的、とかいう思考もなく。
読書も時間とられるしなあ、映画も2時間とられるしなあ、みたいな感覚になって。

3ヶ月前、まるいがんもさんの、このnoteを見て、危機感を覚えた。

社会人になるための理論武装。
装備。
Obsidian、Apple、Feedly、Kindleなど、便利な道具達。

問題は、その時に、文学をふりほどいて、かなぐり捨てて、そこを洗い落として、装備を付けて、戦地に赴かなければならないのか、ということだ。

え?ナイーブな若い人たちのために、社会を戦場と捉えるな?
人間とは、時にはそういうものだ。
文学を知る者なら、そのくらいはわかるだろう?

けれども、そうも言っていられない現状か。
もう一度やらせてくれ。

問題は、社会に出る時に、その楽園に入るためには、煙を浴びて文学を忘れて、身軽になって、懊悩から自由になって、機械的・効率的に社会の歯車にならなければならないのか、ということだ。

働いていたら、ふと、その物語の結末も、哲学的な問いも、複雑な問題も、どうでもよくなる時がある。

うつ
不感症
無感動
思考や行動を軽くするために、情動を排除することが必要なのか??
森岡正博氏『感じない男』。
いや、だからこそ、幻想の文学が必要?

うつな夜更けに目覚めて、不感症で無感動な状態で、共同幻想を作るための文学を読んで、そんな状態で文学を読んで、なんになるというのだ。
感情のジェットコースター。
いっそのこと、心なんて殺してしまえ、となる。

システムの歯車になって、心を殺して、けっこううまくやってこれたと思うのだけれど、どこか、富樫さんの『レベルE』の、人間社会に紛れ込んだ宇宙人のような気分だ。

アイヒマンのように、想像力の欠如した人間にはなりたくない、と、大学時代に『海辺のカフカ』を読んで思っていたのだけれど。
『海辺のカフカ』については、この前久々に読み返した。
少し、私の心は息を吹き返す。

以前、三宅香帆氏の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んで考えたことについて、書いた。
結論、全身で仕事に燃えて、本も読めなくなる、のではなく、半身社会を目指さなければならない。
しかし、物理的に、難しい現状がある。
そこで、いかに効率的にやるか、ということになる。
そのための社会人の武装の仕方について、考える必要がある。

それを、心をなくさずに、文学的であり続けながら、やる必要がある。
これまでのやりかたについて、うまくいったものもあれば、うまくいかなかったものもあると思う。
それについて、考えなければならない。


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