見出し画像

日記と珈琲_プロローグの裏側

からだの8割が「珈琲と映画と本」で出来ている医学生です。noteで投稿し始めた「日記と珈琲」のさわりの残りの部分(裏側)、日記でよく書くことに触れます。


珈琲

幼少の頃、田んぼの手伝いで飲んだ缶コーヒーが忘れられない。大人になろうと背伸びした苦い飲み物が、いまとなってはぼくを助ける活力となっていて日々の生活レベルを底上げする。生きるのに欠かせなくなった珈琲には格別の思い入れがある。

不可分の珈琲

珈琲はぼくにとって、不可分の興味だ。これ以上分解することの出来ない好みの対象であって、"kotoba"と同様に、それ自身を愛してしまったらそれより先の好きを表すことが出来なくなるほどの存在感。珈琲は、ぼくの生活記号として機能している。記号、あるいは日常の句点。珈琲を毎日飲んでも、消費するだけの存在に虚しさを覚えたことがあった。大量消費の最中で、ぼくはどうにかして一杯の珈琲の価値を高めたいと思い、人文的に消費される方法で体験を共有してみてはどうだろうか、と思い、日記をつけ始めた早い段階から日記の締めにその日飲んだ珈琲を記録するようになった。
日記に買ったものを書くのは、武田百合子の日記にもみられる現象。家計簿をつけるように、その日に買った商品と値段を記録するのも文学だと知ったぼくには衝撃が走った。脳内に数字が流れる。この無意味そうな文字列が過ぎることも、武田百合子は見逃さなかった。
ならばぼくも、飲んで終わらない環世界を書いてみようではないか。

あそびとしての珈琲

余裕のある人には、珈琲が交換不可能な趣味に昇華する。飲み物は、ほぼ珈琲。一度その苦さの虜になって、ぼくらは甘味の需要を極端に下げてしまう。ぼくは苦さを飲み込める人、珈琲に集まる人が好きだ。それは精神的に高貴で、厳格で、寛容で、カフェインの交感神経亢進による元気の前借りを前提としたエンパワーメントを利用する人物の集合。珈琲という記号の求心力が、まるで茶道のように静謐な世界やファンキーな世界を創り出して、他者にやさしい、人を巻き込む穏やかな世界を共有し始める。その空間に身を預けるのが心地良い。
しかし、珈琲が嫌いになる理由もあって、高価で、苦いこと。往々にして1杯500円以上もするのって考えてみたら高すぎる買い物じゃないか。500円があれば昼食の一つや二つ、隣町までの交通費くらい。食を余し、移動を不足させて、なんで珈琲を1杯飲みに行ってしまうんだろうか。そして大事なのは、苦しいことってのはいつだって嫌だってこと。気分は正直で、疲れて今夜はもうソファーでゴロゴロしたいと思うとき、甘いものを欲するときもある。苦しいことは好んでするものではない。でも余裕のあるときは苦しいことも飲み込んで、嗜みとする。珈琲を飲むために、あそびのある生活をつくる。

バリスタの珈琲

ぼくは好きが講じてバリスタの資格をとった。といっても、一般社団法人日本スペシャルティコーヒー協会(SCAJ)が主催するものとは違って青森コーヒーライセンス委員会(ACL)という、全国で最も早い時期にバリスタの資格制度を敷いた組織で修行し、実技試験を経てバリスタになった。取得したのが2021年で、今は3年目。バリスタとして活動できた最大の功績と言えばAomori Coffee Festival2023に出店したことか。競合世界で成果を上げこそしなかったが、人との関係を構成する要素の一つとして、ぼくをバリスタとして扱うすべての人に、丁寧に珈琲を淹れる。それは弘前市で開業した〈医Café SUP?〉で最も発揮した。これについては別の機会に話そう。

透明な赤い液に密やかな世界。淹れる時間も安息の一部。

映画

血肉の一部になった名シーンを思い起こせば、人生の逆境に対処できると信じていた時期があった。周りに何にもない田舎でテレビの前に張り付いていた頃、レンタルビデオ屋とWOWOWの映画を観るのに夢中だった。映画は人生を豊かにする、と誰かが言ったのを真に受けて架空の経験を積み重ねてきたから、映画の文脈を吸収し、日記に落とし込まれる文体に映画の影響が表れているかもしれない。

kotobaが溢れ出る映画

映画を観たら逐次記録している。Filmarksという映画レビューアプリで、観た映画を思い出せるよう記録し、感想を書いている。日記の中の映画は、タイトルと誰と観たかを記録する棲み分けを意識するが、やはり人生を変えてくれるような映画に出逢ってしまったら、感想を書かざるを得ない。ぼくの日記には押し付けがましい意見やうるさい感情の洪水は表れないようにしているが、感動で溢れるkotobaは記録したくなるものである。
普段の生活に疲れて息抜きをしたい時、考えていたことを深めたい時、休日予定がなくて時間を潰したい時、誰かに勧められたのを思い出した時、「映画を観る」がパッと浮かんできて、活力を与えてくれたり悲しみを和らげてくれたり、会話の糸口にしたり、思索を先に進めたりするのに映画の力を感じることがある。映画を観ることで想像力を伸ばす、といった効果を期待しているが、あくまで娯楽なので深入りはしない。映画好き、という点で、ゲームクリエイターの小島秀夫を尊敬している。

影響を受けた映画

インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌 (2013), PERFECT DAYS (2023), ザ・ホエール (2022), 哀れなるものたち (2023), インターステラー (2014), パリ13区 (2021), 市民ケーン (1941), めまい (1958), A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー (2017), アフター・ヤン (2021)

2024/02/25時点
高3の冬に観た映画。ギターと猫を抱え夢を追う主人公。色、音楽、全てが心地よい。

自分の好みは点として表現されない。歪な線形をたどり、ようやく自己と他者とを比較されるようになると考えているので、kotobaと文章を追って、本を追って、この人とは好みが合うと確信したものは鮮烈に脳に刻まれ、いざという時の引用元として隠している。本をたくさん読め、と誰かが言う前に、ぼくは幼少の頃から図書館と本屋に行くことを生きがいに位置付け、日々の営みの重要な活動としてきた。近年、大型本屋の撤退が相次ぐなかで、独立商店の本屋がたしかに息づいていることに感謝している。本屋に行く楽しみを遺してくれている。本の体験が大きく変わろうとしている。燻った本屋や図書館も、そろそろ殻を破らねばならない。

異所性の感覚としての本

旅がしたい。どこか今と違う場所に連れて行ってくれる起爆剤が欲しい、と思ったら本に手が伸びている。本を読むと、遠くに行けるような感覚にならないだろうか。昔の叡智を借りて自分の考えが進むような、物理的空間を一挙に開放してくれるような、地方の情報格差という呪縛から放たれるような。本が人生の重要な位置を占めるのは、場所を問わず知的好奇心を満たせる道具であるからで、移動したいからという理由よりも、自分の持つ感覚をどこか遠くに飛ばしてやりたい、感じたことのない世界に誘いたいからだろう、と思う。日本の僻地でも、都心から生まれた本も海外の古典文学も同時にアクセスできる環境に日々感動している。田舎といえど、古本屋や図書館は整備されているもので、暇さえあれば訪れ、癒しを求めにさまよっている。

文体の破壊と再構築のための本

ぼくには「ぼくの文体」があることを自覚しているが、日記を読んでいて「つまらない文章になった」と感じたら文体を壊すつもりで見直してみて、さらに本の力を借りながら、こういう文が書けるようになりたい、と願った先の文体を想像して作り直す作業をする。大江健三郎の『新しい文学のために』から受け取ったメッセージの一つ。若いうちに自分の癖に気付き自らの文学を築くことで、廃れつつある文学の世界に光を落とす。ぼくの文学は、未だ思考の形をした言葉の塊でしかなく、小説やエッセイにまで落とし込むには技術と体力が足りないと思っている。しかし、励ましの文学、哲学のための柔らかい文学を目指して、日記を書き、日記を読まれようと、渡りに船を得たように本を見つけ、影響を受け続ける。文学が完成するまでの刹那的な薬として、若いうちは本をそのように使おうと思う。破壊と再構築の先にどんな文学が生まれるだろうか。

影響を受けた本

安部公房『砂の女』『赤い繭』, ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』『郷愁』『デミアン』, 武田百合子『ことばの食卓』『日日雑記』, 鷲田清一『「聴く」ことの力: 臨床哲学試論』, くどうれいん『虎のたましい 人魚の涙』『わたしを空腹にしないほうがいい』

2024/02/25時点
砂が村を侵食する。男は順応を選ぶ。前衛的で不条理な文学。

写真

野生的だ、と考えることが多い。カメラで撮ることは風景を切るということ。他の一切の情報を捨て、欲しいものを欲しいままに遺そうとする。写真にはkotobaが映らない。あとから付けられた題名と解説で補完されてようやく形になる不完全な芸術で、少ない情報から鑑賞者に解釈を委ねる暴力的な側面もある。
もやもやした捉え所のない心を表すためには、撮ることが重要とも考える。kotobaにならない正体不明の事象をなんとかして写真に収めた感動は、はじめは撮影者のぼくにしかわからない。それを共有できれば、誰かを楽しませることができないだろうか。そう願うのなら、kotobaが必要だ。ぼくとあなたを結びつける言語を介して感動を伝えようと、むずかしい心を解釈して、翻訳して、発信する。
大抵の場合、色のない世界で表現したがる。それは本質の輪郭や存在感に実直な世界で、軽度の色覚異常のぼくが自信を持って撮れる世界だからだ。ここは、寒風吹き荒ぶ雪国、津軽である。強烈な白のイメージは雪以外の物体の輪郭を浮き彫りにし、異質感を増幅させ創作意欲を刺激する。ミニマルが好きで、モノクロが最も似合う世界で勝負する以上、冬が本番。写真の力強さを借りて世界を切り取り、物語りたい。

影響を受けた写真(家)

植田正治, Takay, 三部正博, Numari, 安部公房, 嵐田大志, Taishi Yokoyama, 今泉忠淳

2024/02/25時点
植田正治「軌道回帰」

あ、野良猫。日記に🐈か🐈‍⬛が登場する(絵文字の猫は2種類しかないのが悲しい)。偶々出会ってしまうと脳がバグる。足が止まって、お近づきになれるだけそばにいて、去ったら元通り。多幸感のエンドルフィンが下垂体から分泌されて報酬系に行き届いて、悲しいときもルンルンのときも「時を止める」。道端で猫を見かけたら、スマホを取り出しメモアプリを開いて絵文字を打つ。

書かないkotoba

自信がなくてあまり使わない曖昧なkotobaや、使うと辱められそうになるkotoba、意味が広いkotobaを避ける傾向にある。例えば「美しい」は、本当にそうだとしても情景を表せるkotobaが無数にあるはずだから、簡単に始末せずもっと他のkotobaを当ててやりたくて使わない。冗長的になりがちなkotobaも避けて無駄の少ない文章を作ろうとするだろう。煙たがる単語を以下に羅列してみた。
逆も然りで、好きで自信があるkotoba、柔らかさの表現、表記揺れ回避のために決めているkotobaもある。kotobaの好き嫌いは日記を書きながら区別され、だんだんと自分の環世界の分節化が楽しくなっていく様子がわかる。まるで子どもがkotobaを獲得して世界を分節し、大人との会話が捗って楽しくなるように。

【嫌い】的、感じ、っぽい、みたいな。かもしれない、できること。いろいろ。けっこう。としては。ということ。無限に。幸せ、幸福。栄養素、健康。最強。運命、奇跡。笑。謎に。美しい。綺麗。絵文字全般。
-------------------------------------------
【好き】ぼく。身体、からだ。ゆらぎ、ゆがむ。珈琲。猫。〈好きな場所〉。kotoba。

2024/02/25時点

場所

好きな場所は〈〉で記載する。他人に勧めるように、Googleマップに記録した店や建物を日記に登場させることがある。時間が経ってなくなっているかもしれないが、それも栄枯盛衰の流れだと思って想いを馳せて欲しい。ぼくは場所性に、恋しがち。

2024/02/25時点で⭐️の地点は702か所ある。

時間

脚本のようだ、と思って日記を読み返すことがある。いつ何が起きて、誰が何を話したのか、出来事の説明に時間の表示が有効な場合があることを知っているから、分かる範囲で記載する。忘れたり、無意味と判断したときはその日の大雑把なハイライトとして記録されるだろう。いずれ日付を書かない曖昧な日記を書きたい。

足跡は後から辿る人にすべてを伝える。

以上、「日記と珈琲」の裏側。この日記の目標を、2024年12月までの連載でzineを作ることにしました。よろしくお願いします。

ではまた。

プロフィール
米谷隆佑 | Yoneya Ryusuke

津軽の医学生. 98年生. 2021年 ACLのバリスタ資格を取得.
影響を受けた人物: 日記は武田百合子, 作家性は安部公房, 詩性はヘルマンヘッセ, 哲学は鷲田清一.
カメラ: RICOH GRⅢ, iPhone XR


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?