劣位項こそ、完全な現実である
悪こそ、堅牢な現実である。外的聖化。完全を目指すのではなしに、むしろ不完全性へと留まること。その意味では、結合性が、新たな生の開始への兆候(シーニュ)となる。わたしたちは、様々な人と出会う。そこにおいて、一元的な関係、つまり友人関係は、快いものだが、そのような関係はむしろ、脆弱である。人には色々な側面がある。様々な特徴の集合が個人であるとするなら、人間性の善と悪の部分は、甘んじ受け入れねばならない。結合とは、哲学的に言えばエロースである。不完全であるがゆえにエロースがある。エロースにおける発生は、原因もなしに突如生じる。完全性を独善的に構想し、いわば、他者が入り込む余地を塞ぐのではなく、不完全であって、だからこそ、エロースが可能となるような、そしてそこにおいてこそ、成立するような完全性を生きることである。