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チェリスト David Popperの生涯 ②

ウィーン時代(1868〜1873)
 1868年、指揮者ハンス・フォン・ビューローの勧めでポッパーはウィーンの宮廷オペラ・オーケストラの歴代で最も若い25歳の首席奏者になりました。彼はウィーンフィル・ハーモニーの演奏会や、コンサートマスターのヨゼフ・ヘルメスベルガー らとの「ヘルメスベルガー四重奏団」の演奏会にも参加しました。この四重奏団では1868年から1871年の4年間、1年に8回ずつ全32回の演奏会を行い、ベートーヴェンの作品が最も多く演奏されたそうです。
 1872年の6月、ポッパーはピアニストのゾフィー・メンター と結婚。彼女は長期にわたり演奏旅行に出ることがあり、ポッパーもオーケストラの数多くの演奏会が自身の演奏活動を不自由にしていると感じはじめたようで、楽団の事務局にシーズンのうち3ヶ月を楽団から離れ、自らの演奏旅行に充てることを要求しましたが、拒否されたそうです。1873年の春、オペラ座とウィーンフィル・ハーモニーとの契約を終了しました。のちに彼はこの時期を「人生で最も多忙な日々だったと」語っています。

演奏旅行の時代(1873〜1886)
 1873年にポッパーはウィーンを去り、ゾフィー・メンターとともにロシアやイギリスを含むヨーロッパへの演奏旅行を敢行。特にモスクワ、サンクトペテルブルク、キエフなどロシアとその近辺の各都市を多く訪れ、ピアニストで作曲家のアントン・ルビンシュタイン やロシアのチェロの名手カール・ダヴィドフ と親交がありました。ポッパーとメンターはそれぞれの演奏活動が忙しくなり、1883年にメンターはサンクトペテルブルクの音楽院の教授職に。1886年にゾフィー・メンターとは離婚します。

リスト音楽院の時代(1886〜1913)
 1886年にブダペストのリスト音楽院に弦楽器部門が創設され、ポッパーはリストの推薦で、ベルギー人のヴァイオリニスト、イェネー・フバイ と初代の教授に就任しました。
 フバイとポッパーは「ブダペスト四重奏団」を結成。この四重奏団には度々ブラームス が加わり、1886年にはブラームスの《ピアノ三重奏曲》 op.101の初演をフバイ、ポッパーと行いました。ポッパーとブラームスとの親交は大変深く、彼の《チェロソナタ へ長調》op.99のブダペスト初演をブラームス自身のピアノで行なっています。

 音楽院での生徒は27年間で200人を超え、弟子の多くは教師かオーケストラの団員となり、主な弟子にはアルノルト・フェルデシー(ハンガリー国立歌劇場のソロ・首席)、ヤノーシュ・シュタルケルの師であるアドルフ・フィッシャー、ポッパーの伝記を書いたスティーブン・ディアックなどがいます。
 1913年の夏、ポッパーは休暇中にウィーンの近くの街バーデンで亡くなり、ドレスデンに埋葬されました。



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