嘘が嫌いな大嘘つきのボクだから…
僕の憧れのCMディレクターの一人に、杉山登志という人がいる。
1960年〜1970年代の資生堂のTVCMを数多く手がけた、いわゆる審美眼がクッキリとしたアーティスト肌のCM作家である。
でも、いわゆる裏方に過ぎない職業である彼を世間的に有名な存在にしたのは、キャリア絶頂期のタイミングで彼が自殺というショッキングな死に方をしたということに加えて、最後に彼が遺したこの文章のせいだと思う。
1973年、石油ショックという突然の向かい風があったとはいえ、高度経済成長という破竹の快進撃を続けていた当時の日本人には、もしかしたら彼のこの言葉は、そんな自分たちの狂騒の内実を暴露されたような、なんだか水を差されたような、ちょっと居心地の悪い印象を与えたかもしれない。
まぁ、正直、そんな他人のことはどうでもよくて、それから20年くらい経って、この言葉を初めて知った(たぶん雑誌「広告批評」か何かで)僕は、なんとも形容しがたい衝撃を受けたのだった。まぁ、当時の僕は精神的な啞だったので言語化できなかったのもむべなるかな、なのだけど。
で、それからさらに30年が経過した今になって、あのときの自分の衝撃を野暮を承知で説明してみると、きっと
広告なんていう嘘をつくのがナンボな仕事に携わっている人が、なんで嘘をつくことに対してこんなにも苦悩しているんだ
という驚きだったのだと思う。
そして、今、僕がなぜ唐突にこのエピソードを思い出したのかというと、
世界は嘘であふれている、それは自分自身も含めてね
というしごくありふれた達観に僕が今更ながら至ったからである。
にも関わらず、いちいち嘘がばれるのを怖がっている杉山登志という人は、なんとも幼稚なメンタリティというか、自分だけピュアを気取りやがって!と思わず悪態ををつきたくなるけれど、それが本心じゃないことは自分でもよく分かっている。
だって、そんなパラドキシカルな葛藤を抱えていた彼だからこそ、あんなにもカッチョイイ映像作品を次々と産み出せたからに違いないからだ。
そして、彼のようにフツーの人から見たら馬鹿げた理由で勝手に自滅してしまうような不器用な人たち(エスカピスト)の方が
面の皮がザボンの皮並みに厚くて、自分はどちらかというと良い人だと信じて疑わない
いわゆる要領がよい人(リアリスト)たちよりも
ずっと好感が持てる
というのは、単なる僕の好みに過ぎないわけだけども…。
というか、はっきり言ってしまえば、自分もまた彼らと同じ
嘘が嫌いな大嘘つき
という大馬鹿野郎
だからなのだろうなあ。
でも、きっと
そんな人間だからこそ表現できるものがある
とまだ心のどこかで信じているからこそ、僕は今日もこうやって性懲りも無く
仕事をしたり
文章を書いたり
している
のかもしれない。
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