言葉より大切なもの
息子と2人で釣りに行くのは、なんとほとんど3年ぶりだった。
でも、その間、一時はもう二度と行けないのではと思っていた時期もあったくらいだから、むしろ再開できただけでも嬉しかった。
ちなみに今回の釣りスポットとなる多摩川の下流の汽水のある場所の近くには大きなお寺があったから、まずは神頼みだよね、という話になって、そこでお参りをした。
いつも以上に時間をかけてお祈りする彼の横顔を永遠に見つめていたいと思った。
その後、お昼ごはんにコッペパンとおにぎりを買って、僕らは本日の釣りスポットに向かった。
前回は同じポイントでハゼを2匹釣ったから、今回はクロダイ3匹釣ることを目標に掲げた。
しかし、結局、この日の釣果は、0匹だった。
僕自身も投げ釣りがなかなかうまく出来ずに何度も糸を絡ませてしまい、いいところを全く見せれずじまいに終わってしまった。
そして、夕方、川沿いの大きな舗装された自転車道兼歩道を駅を目指して息子と一緒にテクテク歩く。
2人とも心身ともにかなり疲れていたはずなのに、割とこのときはまだテンションが高かったこととか、
てんとう虫をすばやく見つけた彼のことをまるで親だと間違えたのか、てんとう虫はずっと息子の上着にくっついて離れようとしなかったこととか、
路上に落ちているうん◯この数を2人で数え歩いたこととか、
ここに住む人たちは、25回野糞をしたら、ダンボールで簀巻きにされて、河川敷の斜面から転がされて川に落とされるという刑に処される
という息子の作り話にゲラゲラ笑ったこととか、
そのときに僕の目に映った夕陽に照らされた緑と水門と食品工場の建物の風景があまりに美しすぎて
200年後には、僕も息子もこの世にはもういないんだよな
とふと思ったこととか、
そんなささいな諸々が僕にとってはこの世界の中で何よりも大切なことなんだよなあ
という当たり前にまだちゃんと気づくことが出来た自分のことがなんとなく嬉しくなって、ちょっと泣きそうになったこととか、
などなど…
確かに最近の僕は、ネットに溢れる会ったことも見たこともないたくさんの人達の言葉の洪水に溺れて思わず自分の姿を見失いそうになってしまうときがあるけれど、そんなときはこのときのことを思い出そう。
うん、誰がなんと言おうと、
僕はこの僕自身のかけがえのない人生を
毎日こうやって確かに
ただ生きている
のだから。
そして、このnoteの記事も
ただそんな自分が見たまま、感じたままを書いているに過ぎない。
そう、誰の目にも触れられるからこそ
「」付きの意味からできるだけ遠くに、
今はそんな思いをどこかで抱きながら、文章を綴っている。
何故ならこの世界には言葉よりも大切なものがあることを僕はすでに知ってしまっているのだから。