育っていく芽をみつめる
元不登校ママのあぐりと申します。
今回は、不登校の親の視点から見る「不安」や「心配」とは何なのか?
そしてその気持ちはどのようなことで変化していくのかを、お話ししようと思います。
途方に暮れる
不登校の一番の不安、それはいつになれば解決するのかだ。
それがわかれば、たとえば3年かかると言われても、その間は諦めて3年の月日を待つのだと思う。
でも実際には、誰も断定できないこと。
その責任が親にずっしりとのしかかる。
子供の資質や親の関りや環境、何がどうなると良いのだろう。
今の取り組みを続けることが良いのかどうか、それすらも危ういのだ。
すっかり無くなった。
もう試すことがない。
初めにあった心配や不安、怒りさえもどこかに行ってしまった。
日にちが経っても何かが変わったとも思えない。
ここからどうやって解決に向かうのだろう。
今思えばここから変化が訪れた。
そもそも「解決」とは何なのか?
不登校の解決とは
当初の私は、真っ先に「学校に行けるようになること」と言ってしまったかもしれない。
要は学校に行って過ごせるだけのエネルギーが溜まれば、何も問題がなくなる。
そのエネルギーとは、多少嫌なことがあってもそれを乗り越えていけるだけの容量のもの。
だから解決したから学校に行けるようになったという方が、正しいのかもしれない。
「解決」と「学校に戻る」を同じことと捉えるから、親は無理やりにでも学校へ行かせようとする。
再登校することにより学校の楽しさを実感し、消耗しながらも自らが充電をしていくこともあると思う。
逆に、不登校になってからの時期にもよるけれど、「学校に戻る」ことが解決から遠ざかる可能性もある。
せっかく溜まったエネルギーが不十分な場合、無理をするとまたエネルギーが減ってしまうからだ。
だから自然にしていればそのうち行けるようになるし、毎日学校にも通えるようになるとも思えた。
エネルギーがどれくらい溜まっているのかがわからない。
家でエネルギーを溜めるためにどうすればいいのだろう?
そこでまた悩んでしまう。
芽が育つとき
不登校だったわが子が学校に復帰した時も、私は手放しでは喜べなかった。
学校に行けるかどうかは、わが子の状態のバロメーターであるのは間違いない。
学校に行けたことで成功体験を積むことになれば、それは本人の励みと自信になると思う。
だからこそ、学校に行けた次の日はドキドキした。
時間をかけて再登校を何度も繰り返したわが子は、段々とそのリズムを覚えていったのだろう。
行きたい行事の前は、逆算したときから徹底的に休む。
そして当日になれば突然に登校することがあった。
帰ってくればまた暫く休息のため休んでいる。そんなインターバルな学校生活を自ら実践していた。
エネルギーを計算しながら、半ば計画的不登校という感じに過ごしていた。
私は不安があったものの、自らが考えて動いているということを頑張りとして認めていた。
親があれこれ動いていた時は石のように動かなかったものが、もうどうしようもないと諦めたころからそうなっていった。
不安だった本人が自分の操縦法を理解したように、それがわかってくると段々と自分のコンディションを把握して、少しづつ動き出した。
周りの大人の言うことを信用していないわけではない、実践して得た結果が自分のバイブルになっているのだろう。
わからなかったことがわかってくるだけで、行動が現実味を帯びたものになる。
暗闇から少しづつ明るみに出てくる感覚で、最後には日向に出た。
親はどこまで待てばいいのかと思う。
見えないから不安
わからないから不安になる。
わが子にしたら、親のために頑張るのではない、自分のためだと言うだろう。ひとりになり、ものすごい覚悟を持って自分の人生を見つめている。
結局は腹をくくり、どんなわが子でも受け入れていくという気持ちを持つ。
それがあれば願いは叶う。
親の愛と信頼があれば、必ず光が見えてくると私は信じている。
最後までお読み頂き有難うございました。
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