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チェスガルテン創世記【28】
第六章――鷹と狼【Ⅲ】――
「!」
フェンリルはびたりと立ち止まった。
カザドはその場に片膝をつき、激しく咳き込んでいる。立ち上がることもできず、うつむき加減に肩を上下させている様は、それは苦しげだった。
フェンリルの心臓が一度、大きく跳ね上がる。
「じいさん」
突然の事態にフェンリルは、うつむくカザドの元へ早足で近づいた。しかし勝負の際中に、そんなことをしてはいけなかったのだ。
フェンリルが完全な間合いに入り、カザドの肩に触れるほどの距離まで来た時だった。
「――まったく、これだから」
相手は呆れたようにぼやいた。フェンリルがはっとなるも、もう遅い。カザドはフェンリルの足首をとり、思い切り引っ張った。
「あっ」
足元が地面を無くし、身体が宙に浮いた瞬間、フェンリルは思わず風を纏った。けれども、やはり遅かった。背中を地面にうちつけ、握っていた木剣ごと手首をひねり上げられる。
ぎらつく刃のような鋭さで、カザドはフェンリルを組みしき、木剣をひねった手首ごと彼の喉元に突き刺した。
「――っ!」
木剣はフェンリルの首筋をかするように撫でて、地面に突き立った。
フェンリルは荒い息を吐きだし、いたずらが成功したように瞳を耀かせるカザドの顔を見上げた。
「――騙したのか」
「まんまとな」
憎々しく呻くフェンリルに、カザドは二、三度、空咳をした。
「なにも本当に演技だった訳じゃないぞ。お前たちと合流する前に引いた風邪が、しっかり治っていなくてな。あんまり動くと胸がつまる――何せ年寄りだからな」
口元を押さえていても、意地の悪い笑顔は隠せない。フェンリルにだけ、それとわかる嫌味だった。
「くそったれ」
「お前があんまり躍起になるから、ついこちらも本気を出さずにおれなかったんだ。今回は足場の悪さをうまく利用したな。ふんばりがきかなかった。ま、引きわけだな」
上体を起こしたフェンリルの頭を、カザドは愉快そうに撫でまわした。フェンリルが噛みつくようにその手を振り払う。
カザドが言うように、フェンリルは風を纏ってしまったし、彼は得物を以ってこちらを制した。互いに互いの決めごとを破ったのだから、引き分けに違いない。
だがどちらの敗北かは、フェンリル自身が一番痛感していた。
「頬はちゃんと冷やしておけよ。腫れないようにな」
そう言って踵を返すカザドと入れ替わりに、トルヴァが近づきフェンリルの腕をとる。こちらも愉快でたまらないといった表情をしていた。
「いやーおもしろかった。今回はどこやったよ?」
「口の中を噛んだ。それ以外はなんでもない」
「ぼろぼろのくせに」
雪と泥を払うフェンリルの肩に、トルヴァが腕をまわして笑いかけた。
「あのじいさん相手に、引き分けにまで持ち込んだんだ。やったじゃんか、喜べよ」
「勝てなきゃ意味ない」
フェンリルはそっぽを向いた。
「だいたいさ、なんで自分に変な枷をつけちゃうんだよ。使える物はなんでも利用しろってのは、じいさんの教えだろ? 女神の戦士とやり合った時みたいにしてたら、また違ったと思うぜ」
「トルヴァうるさい」
「あーっ、なんだその言い草! そんなに服を汚して、ヘルガに叱られても知らないからな」
するとフェンリルの目つきが、困り果てた子犬が訴えるようなものに変わった。
「そのことだけど、一緒にヘルガのところまでつきあってほしい」
「いや、冗談だっての」
トルヴァが戸惑うと、フェンリルは握りしめていた手を開いて見せてきた。
手のひらにはまだ治りきっていない縫い傷があり、布を巻いていたはずだったが――その布が、ぐっしょりと鮮血に濡れている。
「うわ、どうしたそれ」
「傷口が開いた。一緒に、ヘルガから怒られてくれ」
「やだよ!」
トルヴァは心をこめて叫んだ。
「なんでおれまで、怒られなきゃならないんだ」
「お前とやり合ってた時から、ちょっとあやしかったから……弟みたいなもんなんだろ。兄貴が困ったらついてこいよ」
「それとこれとは話が別だ! あーあー……せっかく、くっついてたのに。……ケヴァンのおっちゃんなら、針と糸を持ってるかもな。この際だ。ヘルガには黙っておいて、こっそりおっちゃんから――」
「――あたしがなんだって?」
少女にしては低い声音が彼らに降り注いだ。びくりとして見れば声の主は水の入った革袋を片手に、しゃがみ込む少年二人のすぐ側に立っていた。その斜め後ろで、串肉の乗った皿を持ったボズゥが渋面を作っている。
ヘルガは特に、フェンリルの手のひらを、射殺すように凝視していた。
「天幕にきな。いま、すぐに」
親指で向かう先を示して、ヘルガが命じた。
たとえ天王であっても、彼女の怒りには逆らえないだろう。
* * *
「傷が開くまでやり合うなんて、馬鹿じゃないの。血が出た時点でやめないのも、本当、まるっきり、馬鹿。トルヴァもじいさまも……何よりフェンリル! あんただよ! 本当、もう、馬鹿じゃないの?」
ヘルガは怒声を浴びせながらも、フェンリルの傷を縫い直してくれた。
ただし、それは細かく縫われたので、フェンリルは手のひらに走るちくちくした痛みが、正にヘルガの怒りそのもののように思えた。
「うん」
「すいません。反省させます」
ヘルガはキッと二人を睨みつけた。
「口先だけの反省とか、いらないから」
荒っぽい手当の様子を、すぐ側で眺めていたボズゥが嫌味ったらしく失笑する。
「そんな見てくれで、女の嫌なところだけ持ってるよなぁ、ホント。男の勝負の美徳が、わからねぇんだからぁ。ああ、やだやだぁ」
「てめぇは関係ねぇだろ。唇の隙間から、飯食うような目に合いたくなけりゃ、黙ってな」
ヘルガが針を構えて警告をする。本気の脅しを受けて、さすがのボズゥも口をつぐむ。きっとヘルガは当分の間、彼らとまともに口をきいてくれないに違いない。
フェンリルの手当てが終わると、その日の彼らは陸路を移動することになった。
「もうじき市につく。そこまで行けば我々の集落まではもう、目と鼻の先と言っていい。開けた場所で人も多いから、はぐれないように気をつけなさい」
がたごと揺れる橇に乗った子供たちに、エイナルがそう説明してくれた。川べりは雪解けが目立ち進みにくかったのだが、山奥に入ればまだまだ雪深かった。
「それから、市ではこういった物が必要になる」
エイナルが革袋からじゃらじゃらととりだしたのは、銀や銅製の丸くて平べったい無数の物体だった。祭りで踊る者が、布の端に縫いつける飾りに似ていた。
「これは硬貨という。市では物品の交換ばかりでは不便でね。そこで流通している物だ。物の価値や値段をつける相手によって、相手に渡す硬貨の量や質は異なる。お勉強が必要だから、今日のところは我々のやり方を見ていなさい」
「これで何ができるんだ?」
フェンリルは硬貨を裏表返しつつたずねた。
銀細工でもない、宝石でもない。羽根飾りでもなければ、刺繍や木彫りのお守りでもない。ほとんど同じ細工で統一された、薄くて平たいだけの貴金属に、物品の代わりになれるほどの価値があるとは思えなかったのだ。
聞かれたエイナルはにっこりした。
「簡潔に答えるなら『お買いもの』ができる」
意味がわからなかった。
エイナルは不思議そうにする子供たちに、数枚の硬貨が入った小袋を手渡した。とりあえず持っておけということらしい。
服のかくしに渡されたそれらを忍ばせていると、カザドが子供らに向かって言った。
「前もって言っておく。これから、お前たちはひどく驚くことになるだろう。――だが何もおこらないから、安心しろ」
それを聞き、馬を引いていたケヴァンが驚いた表情を向けた。
「カザド殿――まさかまだ、教えとらんかったんですか?」
何事にもおおらかそうなケヴァンにしては珍しい、責めるような口調だった。カザドは彼を一瞥し、再び子供たちに――特にフェンリルに向けて――忠告めいた前置きをしてきた。
「改めて言うが、何もおこらない。だからお前たちも、何もするな」
「じいさん、あんたさっきからなにを」
要領を得ないカザドに、フェンリルがやきもきした時だった。甲高い鳥の鳴き声が響き、突進してくる生き物がいた。
「こりゃいかん、捕まえろ!」
ケヴァンが真っ先に動いた。
白や茶の羽毛を懸命に羽ばたかせながら、橇のまわりをちょこまかと走り回るのは、数羽のニワトリだった。
フェンリル含め子供たちは、家禽の類をほとんど見たことがない。捕まえろとケヴァンが言うのも、どうしてそんなに慌てているかも理解できず、とっさには動けなかった。
興味を持って橇から手を伸ばそうとしたロッタも、ニワトリが真っ赤なトサカを逆立て羽根を広げた途端、悲鳴をあげて隣のルクーに飛びついた。
ニワトリを捕まえるのに積極性を見せたのは狼たちだったが、これにもケヴァンは大慌てだった。
「ああ、お前はダメダメ! あっち行きなさい。しっしっ!」
狼たち、特にハティがたちまち興奮して吠えたて、ニワトリを追いまわそうとしていた。好きにさせれば、二、三羽はハティのご馳走になりかねない。
カザドがハティを諌めていると、スコルがニワトリに襲いかかった。だが生かさず殺さずの力加減であり、ハティのようにむやみやたらに吠えて奔走させるのではなく、一か所にまとめるように追い立てている。
スコルに倣い、フェンリルや他の面々もニワトリを捕まえた。
すると、ニワトリが向かってきた方向から、これまた慌てた様子の中年男が現れた。
「いやぁすまない。そいつらはうちのだ。捕まえてくれたのかい」
「なに、困った時はお互い様だ。どうだね? 全部いるかね?」
「――ああ、大丈夫そうだ。まったく、せがれに世話を任せた途端にこれだからな。お礼に、何羽かまけるがどうだい? 卵も売っているが?」
「卵だと? それはぜひとも……」
ケヴァンと男のやり取りを、フェンリルは息を飲み身体を強張らせて見つめた。
どうして双方が互いの存在に疑問を持たず会話を続けているのか、何故そんな悠長なことをしているのか、まったくわからなかった。
「――なぁ」
トルヴァが歯の隙間から漏らすように、それは慎重に囁いた。見れば彼もフェンリル同様に驚き戸惑い――あるいは恐れていた。
「ケヴァンのおっちゃんが話してる相手、あれ、地の民だよな?」
フェンリルは自分の目がおかしくなったのではないと確信した。
ケヴァンが会話を続ける中年の男は、薄黄色の肌とハティのような茶黒の頭髪に髭。そして髪と同じく茶色の瞳を持っていた。
褐色や浅黒い以外の肌を見るのは久しぶりだが、それでも天の民の抜けるような白い肌とは大いに異なっている。
間違えようがない。地の民だ。
(なんで地の民が――)
まさか、戦士の仲間が――迎えに行ったという女神の血族が、ここまで先回りしてやってきたのだろうか?
だとしたら彼らの目的地は、集落は、どうなってしまったのだろう?
フェンリルはいいようの無い不安に駆られ、どうしようもなくカザドを見る。カザドの方も既に、こちらを見ていた。
ぶ厚くかかる暗雲のような重々しさで、カザドが告げた。
「ここから先で見聞きした物を忘れるな。――けして、忘れるな」
【次話】
【他本編】
これまでとこれからと。
【らくがきとか】
作中のワンシーンとか関係ないらくがきとか、登場人物とか
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