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『努力しない生き方 桜井章一』

つくづく読書とは、普段出会うはずもない人と、じっくりと対話出来るような体験だなと思う。

著者は麻雀の裏プロ(裏プロってなに?)の世界で20年間無敗の伝説を待ち、雀鬼と呼ばれた人物。
そんな自分とは無縁と思えるような世界に生きる著者の言葉に、これほど共感出来ることに驚いた。

不思議なもので、自分より足りている人を見れば「自分は足りていない」と思うくせに、自分より足りていないなと思う人を見ても「自分は足りている」とは思わないのである。

努力しない生き方 桜井章一

↓こちらの記事に書いた、こんな一文がある。


ある統計では、「年収があと20%増えたら生活が豊かになる」とすべての所得層の人が答えているそうです。逆に言えば、年収が300万円の人も、500万円の人も、1000万円の人も、ちょっとずつお金が足りない感じがしているのです。

あなたのお金はどこに消えた? 本田健

お金は分かりやすい例だが、誰もが何かが足りないと思いながら生きていて、それが悩みや憂鬱につながっているのではないかと思う。

全てにおいて満たされていて、満足だから何の悩みもありません!という人には出会ったことがない。

先日、7歳の息子に『うちってお金持ち?』と聞かれた。

返答に困り『なんで?』と聞き返すと(質問に質問で返すズルい手段だが息子は素直に理由を教えてくれた。)


『だってさ、〇〇君はSwitchのソフトを僕よりいっぱい持ってるし、誕生日とかクリスマスじゃなくても買ってもらえるんだよ。いいなー。犬もお父さんがお土産で買って来てくれたって言ってたから、僕のうちよりお金持ちなのかなって思ったんだ。』と言う。

同じような話で9歳の娘は去年から、スマホかキッズケータイが欲しいと言っている。
『みんな持ってる』というお決まりの言葉を投げかけてくるが、私調べによると昨年のクラスで携帯電話をもっていたのは4.5人だ。

なにより、1番仲良くしているお友達も持っていなかった。それなのに数名持っている子を見かけただけで、みんな持っていることになってしまうのだ。

小学生の頃には既に、自分より足りている人に目がいって、足りている部分はあまり見なくなるのだなぁ。

たぶん私自身もそうだった。

小学生の頃はみんなが持っている(ように見えた)流行りの文房具を買いたかったし、大学生の時にはみんなが持っている(ように見えた)ブランドバックが欲しかった。

今考えれば、学生がみんな高級ブランドのバックを持っているはずがない。

一部の友人だったに違いないのだが、どうしてもその一部に目を奪われてしまうのだ。

たとえば、六足りているけど四足りないなと思うとしよう。その場合、足りている六の部分を大事にしないで、四求めることに神経がいってしまうのである。当然、六の部分は十分に生かされない。というより、六の値打ちにすら満足に気づいていない。ほとんどの人はこの六の部分を生かしきれず、もったいないことをしているのである。
ところが、六の部分に気づき、六をフルに生かすことができれば、四足りないなということを超えてしまうのである。言ってみれば、すべてはすでに与えられているということに気づくのである。

努力しない生き方 桜井章一

この一文にギクリとした。

子供達のことをとやかくは言えない。

私はこれまでの人生、四ばかり見て生きてきたように思う。
むしろ四を探して、ないものを得られるように努力するのが正しいと思っていた。

父を亡くし、当たり前だと思っていた存在を失って自分は今まで充分持っていたことに気がついた。

初めて六に目を向けるようになった。

これから私は六を大切に、六に感謝できる人生にしたい。

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