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死の足音が聞こえたら、何をすれば良いのか

父は、肺がんのステージ4だと診断されてから、3ヶ月後に死んでしまいました。

父が死んでから、しばらくは何をしていても涙が出てきました。
自分はこんなに、父のことが好きだったのか、知らなかったな...と思う位に。

初めの数ヶ月は、もう二度と父に会えないことが悲しくて辛いと思っていました。

もう、実家に帰っても父はいない。

父がローンを組んで買った家の中は、父のゴルフバックが置かれた玄関も、父がゴロゴロしていたリビングのソファも、お酒を飲んでいたダイニングも、タバコを吸っていたキッチンも、ぜーんぶそのままなのに、父だけがいない。

母が運転する車に乗ると、子供の頃からずっと車の中で流れていた、父が好きなサザンが流れてくる。
父が片手で握っていたハンドルも、サザンもそのままなのに、父だけがいない。

それが悲しくて堪らなかったのです。

でも、少し時間が経つと、あり得ない妄想だとは理解しながら、たとえ二度と会えなくても、どこか遠い街や国で生きていてくれたら、どれだけ良いだろうと思うようになりました。

父は北海道の出身で、老後は北海道に戻りたいとぼそっと言っていたこともあったので、
『父は単身、北海道に移住して実家には母しかいないけれど、北海道で元気に暮らしている』と妄想してみたこともありました。

もしそうだったら、どれだけいいだろう...
もし北海道で元気に暮らしてくれているなら、二度と会えなくても、電話もメールもなくても構わない。ただ生きているという事実だけで充分だと思いました。

でも、そもそもなぜ父の『死』が悲しいのかと言えば、二度と父に会えないことが理由だったはずなのに、この考えは矛盾しています。

私は自分の思考について、考えてみました。

そこで思い至ったのは、私の中で父の死が、『二度と父に会えない悲しみ』から、『自分もいつか死ぬという恐怖』に徐々に変化したのではないか?ということです。

父に会えないことだけが悲しいのなら、二度と会えなくても良いから、どこかで元気に暮らしていて欲しいというのは矛盾しています。

でも、父が死んでしまったこと、父以外の大切な人も、自分も、いつかは死ぬということ。
その恐ろしさから、涙が出てくるのだと理解すれば納得できます。

死への恐怖を、初めは健康の追求という分かりやすい形で消化していました。

しかし、どれだけ健康的な生活を追求してみても、誰も私の寿命を約束はしてくれないし、病気にならない保証はどこにもなく、ましてや、どんなに健康でも事故にあう可能性だってあります。

寿命を延ばす努力をしたところで、人生の残り時間は分からないのです。
死の恐怖は、私に焦燥感をもたらしました。

こんなことをしている場合じゃない気がする。
何かもっと意味のあることをしなければ。

もし、お金も時間も充分にあるとしたら、何をするか?と考えると、『今すぐ仕事を辞めて、世界一周旅行に出掛ける』みたいな物質的なことが思い浮かびます。

でも、お金は充分にあるけれど時間は5年しかないとしたら、何をするか?と考えると、世界一周旅行には、行かない気がするのです。

5年あれば、世界一周も可能だと思いますが、残りの5年を使って世界を周ろうとは、私は思いません。

じゃあ、5年間何をするのか?

何か人の役に立つ仕事をしてみたい。
そして、今以上に家族との時間を大切して、日常を守りたい。

大切なのは日常であって、特別はことではないと思うのです。

肝心なのは、『日常』と言っても、その中には、行きたくない仕事や、ダラダラとネットサーフィンをする時間などは含まれていないことです。

家族とご飯を食べるとか、たわいもないおしゃべりをするとか、一緒に布団に入って眠るとか...

そういう時間が、私が守りたいと思う日常なのです。

5年後に死ぬとしても、50年後に死ぬとしても、守りたい日常は何か?

その日常を守るために何をすれば良いか?それを見失わないこと。
死ぬまでの時間が、こんな風であって欲しいと思える毎日を過ごすこと。

そんな毎日を積み重ねていけば、
思い通りにいかないことがあったとしても、死の間際に「あぁ、これは叶わなかったな」と笑えるのかもしれないと思うのです。

そして、大切なのは、自分がどんな日常を守りたいと思っているのかを、自分の頭でよく考えるということです。

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