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【精神世界?】おすすめの絵本
父が亡くなった時、私は子供達にそれをすぐに伝えられなかった。
特に繊細な娘がどんな気持ちになるか、想像すると怖かったのだ。『死』が何なのかなんて私だって分からないのに子供達に説明なんて出来ない。
そんな時に、ヨシタケシンスケさんの『このあとどうしちゃおう』と『もしものせかい』を知り、子供達に読んで聞かせることにした。
当時はいっぱいいっぱいで、子供達の反応が気になって、この絵本の意味を、私自身は考えていなかった。
昨晩、久しぶりに『もしものせかい』の読み聞かせをした。
すると父の死後、様々な本を読み、私が考えてきたことと何かが繋がったような気がしたのだ。
どんなものでも どんなことでも
どんなひとでも どんなきもちも
きえてなくなったりしない。
いつものせかいから
もしものせかいに
あるばしょが、いるばしょが
かわるだけなんだ。
この絵本で言われている「もしものせかい」は、精神世界のようなもので、自分の中に築き上げた文化、内面、愛する人の面影...ではないかと思った。
目に見えず、形はない。けれど、だからこそ誰にも奪えない。
お金も名誉も死ぬ時には持って行けないけど、「もしものせかい」は自分が死ぬ時にも持っていける唯一のものなのではないか。
初めて読んだ時には『もしものせかい』=あの世かと思った。でも死んでから行く世界ではなくて、生きている時に育み、肉体が無くなっても生き続けるもの。それが『もしものせかい』なのだと思うようになった。
ドイツ強制収容所の体験記録『夜と霧』の中にこんな一文がある。
そして私の精神は、それが以前の正常な生活では決して知らなかった驚くべき生き生きとした想像の中でつくり上げた面影によって満たされていたのである。私は妻と語った。私は彼女が答えるのを聞き、彼女が微笑するのを見る。私は彼女の励まし勇気づける眼差しを見るーそしてたとえそこにいなくてもー彼女の眼差しは今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。
中略
たとえもはやこの地上に何も残っていなくても、人間はー瞬間でもあれー愛する人間の像に心の底深く身を捧げることによって浄福になり得るのだということが私に判ったのである。
収容所という、考え得る限りの最も悲惨な外的状態、また自らを形成するための何の活動もできず、ただできることと言えば、この上ないその苦悩に耐えることだけであるような状態ーこのような状態においても人間は愛する眼差しの中に、彼が自分の中にもっている愛する人間の精神的な像を想像して、自らを充たすことができるのである。
中略
彼女の身体的存在、彼女が生存しているということはもはや問題ではないのである。
収容所生活において、家族の生死を知る手段はなく、事実、著者の妻はこのときにはすでに殺されていたという。しかし、極限状態の中でフランクルを支えたのは妻が生存しているかどうかの情報ではなく、これまで妻と重ねてきた時間であり、築いてきた愛だった。
家も、財産も、メガネや靴にいたるまで全ての持ち物を奪い、名前さえ奪った強制収容所も、フランクルの内側の精神世界は、奪うことができなかったのだと思った。
「もしものせかい」は、大切な人の面影がある世界であり、生涯をかけて大切に育てるべき精神世界なのだと、私は解釈している。
「もしものせかい」が大きくなると、「いつものせかい」が小さくなるという一文に、自分を重ねてしまった。
まさに今の私は、「もしものせかい」を育て、大きくするほどに「いつものせかい」の小ささや、拙さを実感していた。つまり、自分の未熟さを常に突きつけられている気持ちだった。
本書の結末は、そんな私に「いつものせかい」の未熟さを嘆かなくていい、焦らなくていいと優しく語りかけてくれているような気がした。